BC219年ころ イヅモの海岸に
秦国のひとの 乗った船がついた


その頃 和人は 丸木舟に乗っていたので
大きな船の着岸に 肝をつぶしたらしい



上陸したのは 千家の祖 ホヒと 
その子 タケヒナトリらで


大名持(大国主)の王宮に連行された
イヅモ王家は 西と東と 二軒あった



統治王を 大名持と呼び
祭祀王を事代主と呼んで 交代制であった



西の王家は 神門臣かむどのおみ
東の王家は 富とび家で


その領地の 西の端っこは 
宗像王家であった


宗像家の始祖は 出雲王家六代目
オミヅヌ王の子 アタカタスから始まった



この名 旧約聖書P686 エステル記に
アハシュエロス王というインドから


エチオピヤまで 127州を治めた王の
名に似ている。しかも、首都スサの名は


スサの男スサノオとも 読める
ではないか。

 ホヒらは徐福(=徐市フツの命令を受けて
渡来したと語り 後日 大勢の秦族と


徐福が渡来するので 上陸を許可して
ほしいと話した。また、徐福は 

山東省の方士である と言った。
親魏和王の都 参照


『秦から渡来した 徐福』だが、徐福は
山東半島 臨淄リンシか鄒スウが、生地。



臨淄(漢語林P1654)は の都
臨沂ならば 孔子の生誕の地で


出雲族の故地 鄒スウユウ
(= 陬スウ邑)のことである


徐福は 和国に来てから 
ホアカリ(火明)と称し 


第八代大名持→ 八千矛王の娘 
高照姫を奥方として迎え 


生まれた長男の名は 
五十猛イソタケ



『徐福は 徐芾(艸は×)ジョフツ
とも書く』親魏和王の都P.20   漢語林P507


徐福は 徐ジョイチとも書く←❌
艸なしの 芾フツ


イチ      &  フツ


フツは 天子のまえだれ
古代の天子の礼服 前垂れ
漢語林P452



徐福は ジョフツ天子の御子
神話では その天子の御子を


ホアカリ(兄)とニニギ(弟)の
二柱の神という 
古事記の邪馬台国P24


陬月は 陰暦正月の別名
→ユダの担当月



『 陬は 隅 』。漢語林P1289
『 隅は 湾曲して入りくんだ所 』

つまり、禺❗️→愚か者→
中国人が 日本人を蔑んで呼んだ



❣️