東日流つがる外三郡誌の古代史と
竹内文書の日本古代史は
実は、それほど、
矛盾していないのである。
概略を説明すると、今から二万年以上前
日本海が湖で、東シナ海が平原であった
とき、津軽の地には アソベ族が
住んでいた。約一万年前になると
ツボケ族が渡来し 平野部に住み
アソベ族は 山間部に住み分けた。
そして、関東にウツミ族、
北陸にナガミケ族が、中部にツトナ族
近畿にツトミケ族、紀州にナツミケ族
四国にオオカミ族、淡路にヒトリ族
山陰にウツヌ族、山陽にアラミケ族
九州にサルタ族とヒュウガ族が
群雄割拠していた。これらの部族の
連合体が邪馬台国であった。
その中で 畿内五カ国の王、→
長彦大曾止奴み之命の一族→
安日彦あびひこ・長髄彦の兄弟が
邪馬台国を実質、支配していた。
安日彦は 東日本を
長髄彦ナガスネヒコは 西日本を
国主くにぬしと称して
統治していた。
そして、西暦50年頃、神武東征が
始まると まず最初に、サルタ族が
懐柔され ヒュウガ族の先導役となり
畿内に向かって、進軍を始めた。
これに対して、長髄彦は 妹を、
畿内にいた九州ヒュウガ族の名門、
饒速日命に嫁がせるなど
融和政策をとった。
だが、進軍は止まらず、畿内で
戦闘が始まった。
結果は 長髄彦軍が敗北し
兄の、安日彦と合流するため
東に敗走、東日流つがるに退き
アラハバキ王国を作った。
一方、ニギハヤヒとは、出雲族で
スサノオの四男。
ヒュウガ族も出雲族も
どちらの部族も シュメール→
スメル族で、結局、ニギハヤヒは
ヒュウガ族側につき
長髄彦は 敗北し
東に退いた。
(兄、安日彦は 秋田氏、安東氏の祖
と云われている。)
正統竹内文書の日本史③
P267を参照
文責akiko
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