海アマ家の妃は代々 登美トビ家から迎え
そのため 三代目以降は 登美家の血が
濃くなって 大王は母方の家(=登美)で
生まれ育ち その家で政治を行った
安寧紀にあるように 三代目の
玉手見大王は 磯城しき家の者だと称した
つまり
「安寧は 磯城師木津彦 玉手見尊である」
その意味するところは、磯城王朝は
イヅモ文化を受け継ぐ王朝であり
三輪山の太陽神も イヅモの神を祀り
イヅモ式に 祭祀をした
そして 当時は ヒメ・ヒコ制で
司祭者はヒメ巫女 政治王より尊敬された
この時代には 未だ 天皇の称号はなく
天武天皇が最初に その称号を名のった
孝安大王は 国押人
大王の兄を 天足彦という
天足彦の子孫は和仁臣(紀)→和仁臣は
登美家のアタカタスから分かれた家系である
ホアカリ(徐福)は 秦に帰国した後
どうなったのか
火明りは BC210頃
有明海から 佐賀に 再上陸した
ホアカリの和名は ニギハヤヒ
ホアカリ=ニギハヤヒ=彦福
次男の名を ヒコホホデミと名付けた
長男は 香語山(=イソタケ)で
彦穂穂出見命は 香語山の
腹違いの弟である
ホアカリは 筑紫の国を支配する王となり
吉野ヶ里で亡くなったが
彦福の一派は北九州に進出し イヅモ族と
混血したという。そのイヅモ族とは
スサノオ8世孫の アタカタス王が始祖
宗像家 のことであり
その豪族を 物部氏 と呼ぶ
三国志や魏書には
「ニギ」の名が出てくるが
それは、ニギハヤヒの饒を使ったのだろう
筑紫は 3世紀まで 物部王国だった
しかし その後 物部宗家は
蘇我氏に 滅ぼされ
その先祖の仕業を謝り
トヨミケカシキヤ姫推古天皇は
来目くめ皇子を遣わし 新羅征伐をした折に
物部経津フツ主神を
祀らせて社をつくり その神を鎮めたが
これによって この地を
物部の郷さと という
参考図書『古事記の編集室』
大元出版
それでは アタカタス王家
宗像家とは 天子の前垂→芾フツの裔
= 帝舜の裔だったのかもね
むなかたくん!←高校時代の同級生
2019.05.02の記事を 再編集しました
教えていただいた ameba さん
ありがとう😊
❣️