@Rico です。
「みる」
と書いてみて、
見る
観る
視る
診る
看る
覧る
・
・
・
と、たくさんの「みる」がある。
なにかの対象を「みる」場合、
見ている対象は同じでも
そのひとそれぞれによって
見えているもの
見え方
見える角度
見える色
見える形
などが、
本当にビックリするぐらい違うのよね
そして、一つではないのよ。
単にモノをみると言っても
そこには、
脳にひとりひとり異なった記憶とか
それぞれの感性のようなものがあるわけで
単一に見えるはずもない。
こういった視覚というのは、
ある意味、
社会生活やら
現実社会を
上手く生きていくようにも出来ていて
そこに適応すればするほど
見えるものが画一され
制限されている、とも言えるんやろね。。。
(↑制限がなくなるとこんなん?)
視覚は意識と連動しているし、
視覚が変化すると意識の変化が生まれる、
という話を聞いたこともある。
ならば。。。
意識の変化をもたらしたい場合って、
視覚の変化を促せばいいってコト?
(と、単純な感じで思ったりもする)
縛られた
固定化された視覚を
変化させていく。
もしかしたら、
そうやって「みる」視点で
自分自身を見つめてみたら
新たな発見があったりするのかも
しれない。。。
自らを俯瞰して見る
貪瞋痴(とんじんち)のなかにある
自分をみる。
※仏教思想である煩悩の内で
特に有名な3つの盲目的な欲望。
三毒というヤツね。
- むさぼり(貪欲)→とんよく
- 憎悪(瞋恚)→しんに
- 心の迷い(愚癡)→ぐち
そうやって
見ていったら
迷いというものの見え方が変わり
また、
目の前にあるものをみる
視点が変わり、
意識が変化してくるのだろうね。
では。
いつも、ありがとう^^
@Rico
幸せは自分のために
世界が平和であるために