【「みる」ということ→自分をみる、俯瞰する】 | 神さま仏さま「ねえさんぽ」と「あなたの世界をいきること」

神さま仏さま「ねえさんぽ」と「あなたの世界をいきること」

神様仏様、巡礼、登拝を経て「ねえさんぽ」で生まれた感動は、空海さんとの出会いにはじまり神仏さまとの結びへと繋がっていく旅の軌跡(主な巡礼地:奈良・京都・大阪・兵庫・四国)
あなたがいて、わたしがある
世界があって、わたしがある
そんなシンプルな道をともに生きたい

こんばんは!




@Rico です。





「みる」
と書いてみて、

見る
観る
視る
診る
看る
覧る

と、たくさんの「みる」がある。



なにかの対象を「みる」場合、
見ている対象は同じでも
そのひとそれぞれによって

見えているもの
見え方
見える角度
見える色
見える形
などが、

本当にビックリするぐらい違うのよねニヤリ

そして、一つではないのよ。






単にモノをみると言っても
そこには、

脳にひとりひとり異なった記憶とか
それぞれの感性のようなものがあるわけで
単一に見えるはずもない。



こういった視覚というのは、
ある意味、
社会生活やら
現実社会を
上手く生きていくようにも出来ていて


そこに適応すればするほど
見えるものが画一され
制限されている、とも言えるんやろね。。。









(↑制限がなくなるとこんなん?)






視覚は意識と連動しているし、
視覚が変化すると意識の変化が生まれる、
という話を聞いたこともある。






ならば。。。





意識の変化をもたらしたい場合って、
視覚の変化を促せばいいってコト?



(と、単純な感じで思ったりもするえー






縛られた
固定化された視覚を
変化させていく。







もしかしたら、
そうやって「みる」視点で
自分自身を見つめてみたら


新たな発見があったりするのかも
しれない。。。






自らを俯瞰して見る





貪瞋痴(とんじんち)のなかにある
自分をみる。



仏教思想である煩悩の内で
特に有名な3つの盲目的な欲望。
三毒というヤツね。
  1. むさぼり(貪欲)→とんよく
  2. 憎悪(瞋恚)→しんに
  3. 心の迷い(愚癡)→ぐち










そうやって
見ていったら

迷いというものの見え方が変わり

また、
目の前にあるものをみる
視点が変わり、


意識が変化してくるのだろうね。










では。





いつも、ありがとう^^








@Rico 


幸せは自分のために

世界が平和であるために