【生命にかなう道をあるく→大念処経(だいねんじょきょう)の瞑想】 | 神さま仏さま「ねえさんぽ」と「あなたの世界をいきること」

神さま仏さま「ねえさんぽ」と「あなたの世界をいきること」

神様仏様、巡礼、登拝を経て「ねえさんぽ」で生まれた感動は、空海さんとの出会いにはじまり神仏さまとの結びへと繋がっていく旅の軌跡(主な巡礼地:奈良・京都・大阪・兵庫・四国)
あなたがいて、わたしがある
世界があって、わたしがある
そんなシンプルな道をともに生きたい

こんばんは!





@Rico です。






内側を見つめるときを過ごしたこの一カ月

一歩深まったのが瞑想だったかなぁ照れ








ということで


瞑想のひとつ、
身体の観察を見てみるよ。






原始仏教にある

大念処経(だいねんじょきょう)は、

すべてが瞑想の教えになっていて

頭の中で身受心法を実修しているイメージを

してみたらいいね。

(身受心法は「四念住・しねんじゅう」ともいう)



※前のブログもご参考に↓

『四念処(しねんじょ)・四念住(しねんじゅう)という瞑想』








で、



身体を観察する、というのは

どういうことやん?



−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−



内に、自分自身の身体について身体を観察し、

また、客観的に自分の身体について身体を観察し、

あるいは内と外、自分自身の身体について

身体を観察していくのです。


また、身体の中で生起してくる現象を観察し、

また、身体の中で消滅する現象を観察し、

また、身体の中で生起し消滅していく現象を

観察していくのです。



そして、観察して知った分だけ、

観察して記憶した分だけ、

「ただ身体のみが存在する」という念(おも)いが、

自分自身には現れてくるのです。



そうすると、なにかに依存するということがなく、

この世のなかで、なにものにも執着しないのです。




−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−



この観察について、

「大念処経」(だいねんじょきょう)には

死体の観察を通じて、観察があるびっくり




(死体のイメージがイヤな人は

ここから先は読まないようにグラサン








「第一段階」

またさらに、修行僧たちよ、

修行僧は、ちょうど墓場に棄てられた死体が、

死後一日、あるいは二日、あるいは三日と

経つうちに、膨張し、青黒くなり、腐ってくるのを

見るように、かれは、

「この身体も、このような性質のものであり、

このように成るものであり、

このような運命を免れえないものである」と

見るのです。





「第二段階」

またさらに、修行僧たちよ、

修行僧は、ちょうど墓場に棄てられた死体が、

カラスについばまれ、あるいは鷹についばまれ、

あるいは鷲についばまれ、

あるいは犬に食い荒らされ、

あるいはいろんな虫に食われているのを見るように、

かれは

「この身体も、このような性質のものであり、

このように成るものであり、

このような運命を免れえないものである」と

見るのです。





「第三段階」

またさらに、修行僧たちよ、

修行僧は、ちょうど墓場に棄てられた死体の、

骸骨に血や肉が付いて、筋がつながっているのを

見るように、かれは

「この身体も、このような性質のものであり、

このように成るものであり、

このような運命を免れえないものである」と

見るのです。





「第四段階」

またさらに、修行僧たちよ、

修行僧は、ちょうど墓場に棄てられた死体の、

骸骨にすでに肉はなく、血だけが付いて

筋がつながっているのを見るように、かれは

「この身体も、このような性質のものであり、

このように成るものであり、

このような運命を免れえないものである」と

見るのです。





「第五段階」

またさらに、修行僧たちよ、

修行僧は、ちょうど墓場に棄てられた死体の、

骸骨にすでに肉や血はなく、

筋だけが繋がっているのを見るように、かれは

「この身体も、このような性質のものであり、

このように成るものであり、

このような運命を免れえないものである」と

見るのです。





「第六段階」

またさらに、修行僧たちよ、

修行僧は、ちょうど墓場に棄てられた死体の、

骨が砕け散って、そこに手の骨、そこに足の骨、

そこに脛の骨、そこに腿の骨、そこに腰の骨、

そこに背骨、そこに頭蓋骨とばらばらになって

あちらこちらに散乱しているのを見たときに、

かれは

「この身体も、このような性質のものであり、

このように成るものであり、

このような運命を免れえないものである」と

見るのです。





「第七段階」

またさらに、修行僧たちよ、

修行僧は、ちょうど墓場に棄てられた死体の、

骨が白い貝と同じ色になっているのを見たとき、

かれは

「この身体も、このような性質のものであり、

このように成るものであり、

このような運命を免れえないものである」と

見るのです。





「第八段階」

またさらに、修行僧たちよ、

修行僧は、ちょうど墓場に棄てられた死体の、

骨が積み重なって一年経過したものを見たときに、

かれは

「この身体も、このような性質のものであり、

このように成るものであり、

このような運命を免れえないものである」と

見るのです。





「第九段階」

またさらに、修行僧たちよ、

修行僧は、ちょうど墓場に棄てられた死体の、

骨が腐食して粉々になったものを見たときに、

かれは

「この身体も、このような性質のものであり、

このように成るものであり、

このような運命を免れえないものである」と

見るのです。







ここに何度もある





「身体は、

このような性質のものであり、

このように成るものであり、

このような運命を免れえないもの」





ということ。




悲観的なことではなく、

変わらないものは一切なくて

だからこそ

生きていることが尊いのだ、というように

個人的には解釈しているの


(イメージとして、分離感を感じると思うよ)






そして、

身体はいわゆる「容れ物」に過ぎない。






憂うことなどはなく、

ただ、生あることはなにものにも

執着することもない。





つまりは、手放し。






ここでは、



身体は清らかなものではなく、

不浄なものを死体としてイメージ観察して、

この世における

貪欲や憂いの対象からの離脱や除去していく

瞑想部分になるのよねニヤリ




(↑あくまでもイメージ、

  観察ってとこが大事ウインク







容れ物をキレイにしつつ




憂うことなく、

いまを生きること




望むことを望んだようにやってみること。






ま、パーツだけみてみると

密教とは違っているのだけど、

興味深い部分でもあるわ。







何千、何万という

数えきれないほどの体験ができる

このいまがあり、


なんと自由なこころの世界があって


身体という現実と非現実を繋ぐ

容れ物をつかって


いま、ここにある。





意識を向けるだけで、喜びがあり

触り感じることで、安らぎがある





◯◯が良いとか悪いとか

結局はどうでもよくて

この生命にかなう道を歩いていったら

よいのだよね照れ












では。






いつも、ありがとう^^








@Rico 


幸せは自分のために

世界が平和であるために