“見るということの脆弱性”
本にのってた言葉が
ひっかかりました。
なんか、かなり納得、です。
アレクサンダーテクニークのレッスンをしてて
うまくいってるなあ、と思う時って
目の器官で輪郭をきっちりとらえて見る、っていうことよりも
周辺や内側にまとってる気配的なものを見てるような気がしています。
わたしたちが意識的に見る、ということをする時
目をよく凝らして輪郭をはっきりくっきり見よう、みたいな
意図が働いてるように思います。
見ることで得られる情報量は多く
とても恩恵を受けているので
ついつい当てにしすぎるというか
目からの情報絶対主義みたくなりやすいというか・・・
それはそのようにして見えた情報以外をいつの間にか切り捨てることにつながるような・・
だからいちばん表層の今見えているものや
輪郭だけが
今そこにあることのすべてのように思えてしまう、
それで他の感覚情報をシャットアウトしてしまう、
ということは今見えてないことはその人にとってはないに等しい
そういうことは実際的にも
そして比喩的な意味でも
たくさん起こっているように思います。(書きながら気付いた・・)
ということは表層的なものに引っ張られて
とりこまれたりコントロールされやすくなる・・
そういう質の見ることのあり方を
“見ることの脆弱性”といってるのかな?
と、思いました。
今見えてることと別の層で
今のわたしには見えていない
今ある、と思っている以外の“あること”や流れが
いまのわたしにはわからないけどあるんだろうな、
ということを含めておくというのは
とても大切なことのように思います。
神社とかで手を合わせたりするのが
なんとなくいい感じなのは
みえないけれど、あるんだよ
っていうことと
繋がれてまとまれるからかなあ・・
なんて
思ったりするのでした・・
ちなみに
1月22日梅田でのアレクサンダーテクニークワークショップのテーマは
“目の使い方”です。
まだ空きがありますので興味のある方は
こちらからどうぞ・・