こんにちは ニコニコ

父に対して、死ぬまで本音を言えなかった明子です。

 

幼い頃はきっと、駄々をこねて泣いたりしたこともあっただろうに、

誤解をされても解こうとせず、誤解かもしれないのに聞こうともせず、

両親が居なくなった部屋の遺品整理で、案の定 見つからなかったモノ。

 

この期に及んで何を期待していたのか、探してしまう自分が情けなかった。

 

父が捨てたのはきっと逃避行をした時で、一切、説明も後悔もなかった。

父との関係はあの時に終わったとも言えるし、その程度の関係性だった。

娘として愛されてるとも思えなかった上に、言葉にされ文章にも残っている。

 

長らく悲しかったけどね、そうとは言えず、次第にそう思えなくなっていった。

心を無にしなかったら、父の、母の、あの過酷な状況を受け止められなかった。

心細くてたまらなかったのに、甘えたり頼ったりできる人がそばにいなかった。

 

父も母も、自分の親を看たり見送ったことがないから、私の気持ちはわからない。

わからないからこそ無遠慮に頼めるし、言いたいことをついつい言ってしまう。

私は経験したからこそ、息子にも、お嫁さんにも、元夫にも甘えなかっただろう。

 

と、ついつい脱線しがちで困ったものだけど、今回の本題に戻りますね。

 

 

幼い頃、私は大人しく目立たない子で、貧乏を理由に不平は言わなかった。

 

父が何か *しでかした* ことも、子供だから事細かに理解できないだけで、

母の怒りを買う酷いことをしたんだと、子供心に理解しじっと我慢していた。

 

幼いながら、夫婦の間に流れる 不穏な空気 を読む子だった。

 

そして、時は流れ、17才の時には私が、既婚者と知らず恋をして、逃避行。

(この話はかなり長くなるので、動画内で話すことにしてます)

 

父のW不倫そして同棲とは、まったく違う、ただ恋愛をしただけなのに、

父は相手よりも私を嫌悪し、その後、以前のような父子には戻れなかった。

 

その数日後、主がいない部屋を整理した父は、何を思っていたんだろう。

恐ろしくて聞けなかったけど、アパートの一室にあったものは全て消えた。

 

娘に裏切られた怒りでまともな判断ができなかったんだとしても、

父は全てを捨て、母が浴衣を縫いながら帰りを待ってくれたのは、

17才当時すでに、娘への気持ちにしっかりと温度差があったから。

 

その後、(父が怒るのはおかしい)と思うようになったのは、

闘病の末に2002年に父が亡くなり、2010年に母も亡くなり、

夫だった人とも壮絶な日々を過ごし、離婚後の 心の断捨離 がキッカケ。

 

互いに分かり合うことを避けた代償は、思ったよりも大きく根深かった。

 

きっと、普通の親子だったら、ケンカしてもすぐに仲直りして、

あの時のことも、他のことも、何でも聞いて、話し合い理解し合う。

 

私もね、子供らしく思ったことをすぐに聞けたらいいのに、

幼い頃に身に着けた我慢強さが邪魔をして、父への距離が縮まらなかった。

 

そんな私が、中学生の時にプレゼントしたのが、手編みのマフラー。

父が似合いそうな濃いブラウンの毛糸で、ていねいに編んだマフラー。

 

父は受け取った時もまったく喜ばず、その場でつけてもくれず、

その後、使ったという報告もなく、私もずっと聞けなかったそのありか。

 

父の闘病中、衣替えをした時にも見つからず、

母が亡くなった時、遺品整理でも見当たらず、やはり捨てられたんだなと…

 

優しい気持ちまでも、受け取ることもなく踏みにじるんだから、

私の持ち物の中から、大切なものを見分けるなんてできるはずないよね。

 

親の側にそれっぽっちの感情しかないのに、

「親の言うことなんだから」と言われても、心に響くはずもなかったよね。

 

いつから、どんなタイミングでそうなったのか、私にはよくわからないけど、

父も母も、子供より夫婦という考えだったし、父はけっこうわがままで、

家族で出かけるのは父が行きたい お城 ばかりで、母も私も行きたくなかった。

 

同じお金をかけるなら、もっと近くにも楽しい場所があるだろうし、

そもそも私は、どこかへ出かけるより、家でぼんやり過ごすのが好きだった。

 

父も母も宗教活動に必死過ぎて、私の思いなんてお構いなしだったから、

友達はノートとペンだけ。一人でも退屈しなかったのは、友達のおかげ。

 

そんな思いも(どうせわかってもらえない)と、両親に伝えることはなかった。

返ってくるのは『人格全否定の罵詈雑言』だから、いつしか何も言えなくなった。