こんにちは ニコニコ

雨の音を聞きながら、元カレの言葉を思い出した66才、明子です。

 

 

いつ、どんなタイミングでそう言われたのか、それは覚えてないのに、

「お前って、公園にひとり取り残された子みたいだな」と言われ、

(確かにその通りだ)と、まだ恋人でもなかった同僚に、ひとり感心した。

 

私はいつだって、父と母の愛情を求めていたし、ホントは恋しかったのに、

二人してあらぬ方向へ走り、振り向いてもくれなかったから、すべてを諦めた。

 

下手くそな話の中から真実を汲み取ってくれたことで、彼が特別な人になった。

 

同僚から親友へと変化し、もっと自分のことを話すようになって、

出会いから4ヶ月半経った頃に、告白をされて両思いになり、恋人になった。

 

その話は動画でもするだろうから、今日はこのくらいにしておくけど、

私にとって彼は最も好きだった人で、思いを封印するまでに30年くらい、

未練を断ち切れず待ってしまった人で、今となっては、親友だったと思える人。

 

優しく、時に厳しく、心に寄り添ってくれた上で適格な言葉をくれる。

お互いが結婚をしてもしなくても、友達を続けられたらきっと、今とは違った。

 

大昔、傘を持たず学校に行くと、ほとんどの子はお母さんが来てくれて、

傘をそっと置いて行くか、授業が終わるのを待って、仲良く下校をした。

 

そんな時、母は来てくれる人ではなかったし、濡れて帰っても心配もしない。

そもそも、気持ちは別のところにあって、不在がちで、寝る時も一人だった。

 

タイマーでテレビが切れたら、

明日の洋服を枕元に置き、「おやすみなさい」とメモを書いて眠る。

それが当たり前の日常で、当然だと受け入れていた境遇で、淋しいとも思わない。

でも、心のどこかでは淋しいと思っていたから、言い当てられたと思ったんだろう。

 

淋しいと思うことも許されない厳しい状況から、転校によって友だちができて、

勉強や合唱団での活動が楽しくなって、人生が好転した頃、都会への引越が決まった。

 

そんな時だって、私の気持ちなんて汲んではもらえなくて、

父を恨む母は、自分の気持だけで突っ走り、数十年、選択は正しかったと思い込んだ。

 

何か言おうとしたら、「故郷に居たら幸せになれなかった!」と激怒するから、

私は心の中で(これっぽっちも幸せじゃない!)と叫ぶしかない、そんな親子関係。

忍耐強い性格は「揉め事が起こったら嵐が過ぎるのを待つ」と言った父にソックリだ。

 

確かに父は浮気をしたけど、だからといって母の言いなりになり、

母が言ったことだけを信じ、私に確かめもしなかったのは間違ってる。

 

父も、亡くなる寸前、何もかも母にやったことを後悔してたし、

父がそうしたために、私にまでその重責を負わせようとした母も間違ってた。

 

父には母しか守る相手がいなかったけど、私は所帯を持ち、夫や息子がいた。

母を一番に思う相手は、父しかいないんだと、人生を振り返る自覚するべきだった。

 

実の母を老人ホームに入れながら、私に「淋しい思いはさせるな」だなんて、

幼い娘を置き去りに布教活動に邁進したのに、「面倒を見てくれない」だなんて、

本心で話すことを諦めた私に、その張本人が、どうして言えるのか、わからない。

 

でもだからといって、母は母で、他人ではないから気がかりで、心配で、

調子が悪いと言われれば胸が痛いし、断ったあと、店で待つ母の元に向かう。

 

タクシーに乗り込むと、後ろを振り返って、無理に笑顔を作って手を降った母。

そんな母を見ると泣いてしまいそうになり、母を上回る作り笑顔で手を振る私。

 

あの時、母の家には結婚詐欺師が居座り、

私は私で、当時の夫にこっぴどく裏切られていた。

そんな二人を、天国の父はどんな気持ちで見ていたのかな。

 

なんだかんだで、息子とは、父母についてよく語り合う。

息子は、「いちばん思い出すのがおじいさんおばあさん」と言っている。

 

そんな思いも、父母は空から見てるんだろうか。

 

私が語りたいのは、憎しみではなく、自分自身の人生と、関わった人との記憶。