この記事こんなに長くなる予定じゃなかったんだ。不登校の頃を思い出していたら家族関係まで話題が及んで、手がつけられなくなったよ。
どうも”あきかん”です。
中学校3年間不登校でした。
その頃になった体質というか心身の異変で特徴的だった1つがチックという症状です。
高校生の頃にはそれが”チック”と呼ばれることを知っていました。なぜ知っていたのか謎です。
私のチックの症状は目をギュッとつぶるものでした、目をギュッとするので同時に頬が上がり、歯が出ます。その症状は外に出かけたとき、祖父母と話すとき、親戚が同じ空間にいるときになっていました。ちなみに緘黙症の症状が出ないのは、父母兄弟祖母で、祖父とは話せなかったです。チックの症状が出ているとき祖母に変な顔して何をしているんだと言われたのを覚えています。その症状も高校を終えることにはなくなっていきました。
チック以外には、自分が汚い人間だと思うようになってました。例えばトイレの便座に座った後は、便器を水で濡らしたトイレットペーパーで拭いたり、それまで床は裸足で歩いていましたが、スリッパを履いたり、お風呂の湯船につからなくなったり、扉を開けるとき服の袖で開けたりしていました。家族はそれを見て、急に潔癖症になったと言い出していましたが、本当は自分が汚い人間だからそうなったんだよと思っていたことが記憶にあります。そういう行為が当たり前になってくると、今度は本当に潔癖症になっていきました。手を洗っても、気が済まず、何度も手を洗うことで手が荒れて痛かったし、自分の部屋の中以外のものに素手で触ってしまったときも手を洗いに行っていました。外に出て帰ってきた後は、口をゆすぎ、顔を洗い、手を洗いと気が済むまでやっていました。その次は、過度な心配性になっていました。何かにつけて不安になり、例えば家族と出かけたとき、家の鍵を閉めたかどうか不安になり、戻るように言ったり、母の帰りが遅いと事故にあったんじゃないかと不安になり、帰ってくるまで外で待ったり、何も不安になる要素がないのに心がざわついて落ち着きがなくなったりしていました。
チックとか、自分を汚く見るとか、潔癖症とか、心配性とか、今思えば何か心の病気に罹っていたのでしょうか。
そういえば、中学の不登校だったころか、通信制に通っていたころだったか定かではありませんが、車で病院にいって先生らしき人と話して薬をもらってその薬を定期的に飲んでいた気がします。そのときに、母にあなたは病気だからと言われた気がします。
思い出して書いているうちにいろいろ思い出してきました。
確か不安をなくす薬で心が穏やかになるから飲みなさいと言われ、嫌々飲んでいた記憶と、本当に嫌で私は病気じゃないからと言って飲まなくなった記憶があります。
病院は精神科でカウンセリングだったのでしょうか。たぶんそうだと思います。私、病院に行ったことあったんですね。今の今まで忘れていました。
そういえば、その病院の帰りに広い湖?海?のようなところに行き、母に「一緒に死のっか?」と言われました。何て返したかは覚えていませんが、一緒に死ぬ的なことを言われたのはその一度きりではない気がします。
小学校低学年のとき、学校に行きたくありませんでした。
学校が嫌だという、ぐずりに対し、母は私を2階の廊下に連れて行き、私の首を絞めました。
母と父が喧嘩したとき、母が家を出ていこうとしました。私は母についていき、母の実家に一時いました。
そのとき地域のお祭りのようなところで母と屋台をまわったのを覚えています。そのあと、家(父のいる)に帰ろっかと言われ喜びました。
今思い返すと、父と母は良く喧嘩をしていました。2度くらい母の実家にいた記憶があります。
ただ、私の兄弟は母と父の喧嘩している姿を見たことがありません。随分前に知った事実なのですが、母もそれを認めていて、なぜかあなたのいる前で喧嘩してしまっていたと言っていました。
小学校低学年の頃から、私は母の心に負担をかけていたのでしょう。
首を絞めたり、死のうと言ったり、昔から母の心は病んでいたのかもしれません。
母と父の喧嘩の原因も私だったのかもしれません。
私は家族に負担をかけていました。緘黙のことでも、不登校のことでも。
だから今、母は精神科病棟への入退院を繰り返しているのでしょうか。
父が余命宣告された頃から母は心の病に罹ったと思っていましたが、そのずっと昔、私が小学校の頃か、それよりもっと前、私が話せないことが分かった頃から母の心は病んでいったのかもしれません。
何でもかんでも自分のせいだと考えるのは傲慢かもしれませんが、私が普通の子だったら、周りの子と比較して普通だったらと考えてしまいます。そう考えると一人暮らしを始めたのは裏切りになるのではないかとも思ってしまいます。
今日はすごく長文になってしまいました。
思い出話は長くなる傾向にありあますね。