普通の人間とは、

この世の中のルールを作り上げた集団のこと、

そしてこのルールによって一番快適に生活できる集団のことを指している。

 

これまで私の主張は過去の記事にも書いてある通り、

世の中のルールというのは、基本的に知能指数も能力も一番中間によっている人たちが一緒に築き上げたものである。

そのため、知能指数も能力も中間から離れていけば行くほど、世の中のルールに縛られてるような生きづらさを感じやすくなる。

 

しかし場合によっては、知能指数や能力の高い人にとっては、

そのルールの欠陥を突くようなことをする場合が多いので、

この点では知能指数や能力の低い人と異なるだろう。

 

では、普通の人間、つまりこのルールを作り上げて、一番快適に生活している集団のことを話そう。

普通の人間というのは、いくつかの特性を基本的に持っている、

1、コミュニティ内の強い人に従いたがり、その人の言うことを信じて疑わない

2、周りと同じことをする

3、みんながやってることに疑いは持たない

4、普通ではない人間を怖がり、排除しようとする

 

もっと細かくいうと更にあるけど、大きくはこの4つなんだ

そしてこの4つの特性には、共通するいちばん大事なポイントがある

それが、「一番強い人、もしくは一番人数の多いところ」に群がること

 

知能指数や能力の高い人は一匹狼であることが多く、群がっても絶対的な信頼を与える相手は存在しないし、群がってもせいぜい少数であること。

知能指数や能力の低い人は、基本的に強い人に従うが、それは一番自分から一番アクセスしやすい人を、自分に一番親しい人に従う傾向がある。たとえその人はコミュニティの中では多数でも強い方でなくとも。

 

たまに知能指数や能力の高い人と普通の人が同じところに群がることもあれば、普通の人と低い人が同じところに群がることもあるし、高い人と低い人が一緒になったり、全員同じところに集まることもあるけど、だいたい時間が立つとそれぞれのグループに分かれていくことが多い。

 

とりあえず説明がしやすいよう、3つのグループに簡単に分けようと思う。

・低いレベル

・普通レベル

・高いレベル

 

人間ってのは、情報のインプットがないときにはどのレベルの人間もそこまで正確に状況を整理、理解、判断することができない。

しかし、情報のインプットがあれば、この3つのレベルの人間が取ったそれぞれの行動に大きく分かれることになる。

 

低いレベルの場合は、情報が入ってきたとしても、それを整理、理解、判断する能力が伴わないので、基本的に混乱するだけで、それ以上は何もできない事が多い。

普通レベルの場合、情報が入ってきたときに、それを整理、理解、判断する能力がある程度伴っているが、ある程度の量を超えるとパンクしてしまう。そしてその情報自体の正確性、有効性、安全性などを解析することが難しいと感じることが多い。つまり、特に彼らが信頼しているところから与えられた情報であれば、それを信じて疑わない事が多いのだ。

高いレベルの場合は、情報が入ってきたときには、それを整理、理解、判断する能力が優れており、加えて情報自体の分析や解析も難なく熟せるし、普通レベルよりは処理量が多くても苦痛と感じない。

 

ただし、改めていうが、

これは情報やそれを処理する能力をあらかじめ学習した場合の話。

高いレベルでも、その情報を処理する能力をまだ学習していなければ、低いレベルと同じ間違いを犯してしまうこともただただある。ただし一度でも学習できたら、再度同じ間違いを犯すような確率は限りなく低くなる。

 

情報処理のことについて一つ簡単な例を言おう、

近年、高齢者による運転事故が多発するようになったと新聞やニュースが結構目に入るはずだ。

この新聞やニュースに対して、それぞれのレベルの人がどのように処理をしているのかを見てみよう

 

まず、低いレベルの人は、

そのままSNSやニュース、新聞の報道を完全に鵜呑みにし、

更に一部の煽り屋に煽られ、老害だのと批判をひたすらする。

 

そして、普通レベルの人は、

ニュース、新聞、SNSなどの報道の中で一番多数出てくる意見を信じて、

批判のほうが比較的に少ないが、一定年齢になったら免許を返納して運転をやめてみんなに迷惑をかけないほうがいいことや、高齢者に対する講習や追加試験など、みんなが追い求める正解であろうものに追随する。

 

最後に、高いレベルの人は、

そもそも高齢者による運転事故の割合は昔から変わらないこと、高齢化やSNSの普及などによってそれがよく目に留まるようになったこと、更にマスコミやSNSの特性である煽りによる利益の獲得を十分理解しているし、車は本来健常知能と健常身体能力を十分に持つ人を前提に設計されたものであると理解し、現行の車の運転に必要な能力を満たさない高齢者の割合が多いことと、高齢者でなくともその能力を満たさない若年層や青年層にも一定数いること、改善の方法としては色々な側面から考えられるので、車の設計を変えるか、運転者能力の測定方式を見直すか、現状の免許制度を改めるかなど、正解というものがなく、あらゆるところでそれらがつながっているので、全体最適をどうすればできるかを考えることが多い。決して絶対高齢者のせいとか、制度のせいとかと安易にみんなに同調して断言しないことが多い。

 

もちろん、高いレベルの人でも、自分の学習していない分野のことについては学習するまでその視点をもつことはないが、ただ違うのは、普通レベルの人はみんなが思っていることをすぐに正解だと思いがちで、疑いを持たないので、新たに学習する動機やそれを受け入れるようなことを基本的に持っていないのに対して、高いレベルの人は、自分の中の正解をいつまでも正解と思っていないし、新しい情報が入ったり、それらを処理する能力を手に入れればすぐに正解を更新することが可能な点が一番違う。

低いレベルの人は、基本的に自分に一番近い強い人に従うので、その人の意見が変われば、自分もそれに従って変わるだけ、つまり処理を他人任せにして、その結果のインプットだけをするのだ。

 

もう一つの例を言おう

SNS時代では、特にこの3つの層の特性がよく分かることがある。

SNSって、登録者数やフォロワー数の多い人のほうが発信力があり、

昔のマスコミでいうと視聴率や発行部数みたいなもんだと思う。

 

しかし、SNSで発信している人や団体の正体って、

実は昔よりその信頼性が分かりづらく、判別方法が難しくなる。

SNSだけではなく、Google検索結果なども同じことを言える、

 

つまり普通レベルが取る行動としては、

みんなが取る行動に同調することだ。

 

検索結果の上に来るのが、みんなが選んだものだから、「正解」と。

SNSのフォロワーや登録者数が多いのが、みんなが選択した結果だから、「正解」と。

みんなに従ってその正解を受け入れる事が多い。

 

でも、やく7、8年前にキュレーションメディアの騒動があったことを覚えている人は果たしてまだいるだろうか、

SEO対策を極めたチームが、検索するユーザが追い求める正解をひたすら詰め合わせた記事を公開することで

流入を稼ぎ、広告収入を得るという仕組みが蔓延し、中では医療分野にまでその手を伸ばしてしまった大手の会社がいて、

結果的に全く根拠のない誤ったものをてんこ盛りした情報を発信して拡散した結果、大炎上してしまい、

結局当局とGoogleが動き出したことでキュレーションメディアブームが終焉を迎えたとか。

 

あれがまさに「みんなが選んだものだから正解」という過信が招いた最悪の結果だと私は思う。

 

今でも、大物のインフルエンサーが自分の知らない分野に手を出して専門家から批判を浴びたり、一部はのちに大炎上したことがしばしば起こるのも、普通の人間は大物のインフルエンサーがみんなから選ばれた故の「正解性」を信じて疑わない事が多いためだ。

 

別にこういったことはSNSの時代じゃなくても、その以前からよく起こっているが、ただし昔は比較的に限定的で偶発的であっただけで、本質的な人間の特性は何も変わらない。

 

民主主義という制度も、実はこういった弊害をもたらすことが多い。

みんなが選んだものは正しいという思想が民主主義の根幹「多数決」を構成していることであるため、

いわゆる人気投票に陥るだけの選挙が普遍的に存在している。

普通レベルの人というのは、情報を処理する能力はある程度持ち合わせているが、それを使う以前にとりあえずみんなが選んだ正解を受け入れる傾向を持っている。

 

だから選んだのが実は不正解でも、ほとんどはすでに後の祭りで、取り返しのつかない結果をもたらしてしまう。

民主主義を取っている近いところでは東アジアの日本、韓国、台湾や、よく比較される欧米先進諸国などを含めて、どの国でも国民が誤った選択をしたことがある、それも1回や2回ではない。

 

だから前の投稿では述べたように、日本は民度が高いのは幻想であることにも繋がる。

結局どの国でも、国民は普通レベルの人を中心に構成されているため、

普通レベルの人は、みんなが思っていることを正解と考えたがる、

その結果最適解から離れようが、その選択が実質的に脅威に変わらない限り、

本来持ち合わせていた情報を処理する能力を使おうとしないので、

結局対処するまでにタイムロスが生じて、万事休すの一巻の終わりを招いてしまう事がある。

 

良い言い方では、それが「流行」、そして「時代」という言葉で置き換えられるが、

悪い言い方では、それが「同調圧力」、そして「集団恐慌」という言葉に変えられる。

 

ここで補足するが、

民主主義に欠陥があると言っても、

独裁や権威主義がいいと私は思っていない。

 

独裁というのは、そのトップのほうにすべてが委ねられるため、

低能なトップを引いてしまうと地獄絵図の世界が生まれるし、

有能なトップを引いてしまうと今度は普通レベルが生きづらくなる。

すべてが運になってしまう。

 

権威も同じことを言える、

結局権威ってのは能力が伴わない事が多い、ただその権威というものを使って不正解を正解に強制行使することができるので、

独裁と同じく、民主主義以上の災難をもたらすことが多い。

 

資本主義ってのはよく民主主義とセットで語られるが、

資本主義は権威主義の一つに過ぎず、民主主義と一緒に語るようなものではない。

資本主義は一言で言うなら、よりお金を持っている人が正解であるということでしかない。

たとえその人が低能でも無能でも。

 

理想の世界というのは正解としては存在しないが、

最適解、つまりより多くの人が生きやすくなる世界に近付けるには、

どうすればいいかということはできる。

 

今のところ、民主主義がその最適解グループの中で一番多数運用されているに過ぎず、

普通レベルの人達が更に最適解に近付けることは長い目で見ればできるとは思うが、

何かの大きな出来事がない限り、その過程がいつも緩慢である。

 

低いレベルは、自分に近い強い人からの教えを「正解」と信じる

普通レベルは、みんなが選んでいるものを「正解」と信じる

高いレベルは、世の中に「正解」は存在せず、あるのはその時その場の「最適解」と考えて自分で判断を下す。