・訃報 智弁学園(奈良)野球部監督・上村恭生氏死去 | 山口県高校野球情報局 Ameba支局

・訃報 智弁学園(奈良)野球部監督・上村恭生氏死去

 上村恭生氏(うえむら・やすお=奈良・智弁学園高野球部監督)11日午前8時15分、多臓器不全のため大阪市内の病院で死去、46歳。奈良県御所市出身。自宅は奈良県御所市池之内900番地の6。告別式は14日正午から自宅で。喪主は妻佳代(かよ)さん。
 上村氏は1986年8月に同校監督就任。2001年から2年間智弁和歌山高の野球部長を務め、03年から再び監督。95年夏の選手権ではベスト4に進出するなど、約17年間の監督在任中に春3度、夏5度の甲子園出場を果たした。しかし、ここ最近は長年の苦労がたたり、体調を崩し、今夏の奈良大会からはベンチを外れていた。
 

 上村氏は、現役時代は同校の二塁手として春・夏合わせて3度の甲子園に出場。昭和52年の第49回選抜大会ではベスト4に進出した。大学を卒業後の昭和57年4月に教諭として智弁学園高に赴任、コーチ・部長経験を経て、昭和61年8月に監督に就任した。
 投手力を中心とした堅固な守備と基本に忠実なスタイルを確立、平成元年にライバル天理の3連覇を阻止し、監督として甲子園初出場。以後、平成7年の第77回選手権大会準々決勝では福留孝介(中日)ら、タレントぞろいのPL学園を、平成9年の第79回選手権大会の県大会決勝では、選抜大会全国優勝の天理を破るなど、下馬評をひっくり返す緻密な采配も随所に光った。
 平成13年には智弁和歌山高に移り、翌夏、部長として選手権準優勝を経験。平成15年8月、同校の監督に復帰後は、甲子園出場は果たせなかったものの、昨夏の県大会ベスト4をはじめ、各大会で好成績を収めた。また一方で、福井敬治(巨人-広島)庄田隆弘(阪神)秦裕二(横浜)岡崎太一(阪神)今秋の高校生ドラフトでは枡田慎太郎(楽天入り内定)らプロ選手を多数育て上げるなど、チームの中における個を伸ばす手腕も評価が高かった。
 今となっては高校野球の名門と名を馳せている智弁学園高校だが、昭和57年からコーチ・部長・監督としてチームを根っこで支え続けてきたのが上村氏にほかならない。愛する野球に情熱を注ぎ、智弁学園高・野球部を支え、また奈良県の高校野球を盛り上げた野球人が、その短い生涯を終えた。地元奈良では、「高校野球から1人の大きな人材を失った」悲しみで包まれている。

 ご冥福をお祈りいたします。 

【livedoor news、時事通信より 一部削除部分を含む】