余計な争いを起こさないよう最初に書きますが、私は差別も差別表現も、どちらも嫌いです。その前提をご理解の上、お読みください。

 

「差別」と「差別表現」を両方まとめて差別と言っている方々が非常に多いと感じられますが、両者は別物であると私は認識しています。その大きな違いは、差別は「本人が実害を受けるもの」であり、差別表現は「本人が気にしなければ無害なもの」である事です。

 

「差別」を具体的な例として挙げると、「アニメオタクには施設を貸さない」とか「アニメオタクはタクシーに乗せない」とか「アニメオタクには商品を販売しない」などが該当すると考えられます。差別は本人が実害を受けるため、絶対にやってはならない、と私は考えています。アニメオタクを別の言葉に置き換えてみても構いませんが、私の意見に反対する人はそれほど多くないと思います。「差別をしてはならない」は、ごく当たり前のこととして、きちんと日本に根付いていると感じられます。

 

次に「差別表現」ですが、これを具体的な例として挙げると、「アニメオタクは気持ち悪いと発言する」とか「アニメオタクは滅べと印刷した張り紙をする」とか「アニメオタクを見下した漫画や絵を描く」などが該当すると考えられます。差別表現は、私は頭に来るので不快に感じますが、私個人が不快だという理由で他人の自由を制限できませんし、気にならない人(無視できる人)にとっては無害なため、表現の自由であると思っています。とても難しいと思うのですが、差別表現をする自由は、守られなければならないと私は考えています。差別表現を描写しないと作れない映画はありますし、差別表現を描かないと書けない小説もあります。漫画でもアニメでも歌でもゲームでも同様です。

 

ひとたび差別表現を規制すると、その規制は無限に広がっていく懸念がとても強いのです。差別表現とは「多数派や強者が、少数派や弱者に向けて行う表現」だと私は思っていますが、少数派や弱者は、次々に新しい属性の人々が現れます。新しい障害、新しいセクシャリティ、新しい文化、新しい国家、新しいメディア、新しい病気、新しい宗教など、どんどん増えていきます。その度に規制をかけ続けていくと、規制は無限に広がり、出来ない表現も無限に増えていってしまうのです。

 

前述したように、これはとても難しいことです。このブログを読んでも納得できない人はたくさんいると思いますし、私に腹を立てる人もいることでしょう。私自身はアニメオタクとして差別表現を度々受けてきた身なので、私は差別表現が嫌いですが、表現の自由を守ろうとすると、差別表現を自由に行う権利は認めざるを得ない、という結論にどうしても到達してしまいます。要約すると「腹は立つが、自由を認める」です。非常に忌々しいですが、私は自分が好きな表現を守るために、自分が嫌いな表現も守るという立場を取ります。

 

差別と差別表現と表現の自由について、以上が私の意見になります。