「集合知」、ネットでひろがる新しい知、を考える上で、国の政策とか、国民とか文化とか、マスメディアとか、ネットでの意見とかのすれ違いとか、そもそも何が知とか文化なんだろうね...といろんな問題を浮き彫りにさせる非常によいテーマとして「国立メディア芸術総合センター(仮称)」について調査している。
昨日のアンケートもその一環なのだけど、母集団が足りないので、まだまだ継続予定。
http://ameblo.jp/akihiko/entry-10273481795.html
(昨日までの結果については、関係者にお渡ししました、ご協力ありがとうございます)
で、今日は、「『国立メディア芸術総合センター』について討論する」という懇談会があったので参加させていただきました。
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「国立メディア芸術総合センター」について討論する
2009年度補正予算案に、事業費117億円が盛り込まれた「国立メディア芸術総合センター(仮称)」について、アニメーション監督やマンガ家、キュレイターといった作品の創り手、発信者等は、どのように考えているのだろうか?
文化庁「メディア芸術の国際的な拠点整備に関する検討会」の座長でもある、東京大学大学院教授の浜野保樹とマンガ家の里中満智子、アニメーション監督の富野由悠季、東京都現代美術館学芸員の森山朋絵が集まり、プレス懇談会「メディア芸術総合センターを考える会」を6月4日(木)に開催します。
・ 現在計画されているセンターの目的や機能はいったいどのようなものか?
・ アニメーション監督や、マンガ家にとってセンターは必要か?
・ 海外における文化戦略はどのようになっているか?
・ 日本にはどのようなセンターが求められるのか?
マスコミの皆様との懇談の時間も設けて設け、ご意見をいただきたいと考えております。
また、本懇談会で集まった意見は、文化庁に対しても提出する予定です。
御多用とは存じますが、是非ご取材賜りますようお願い申し上げます。
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富野氏に一目会いたい、というミーハー心は、氏の欠席により見事に裏切られたのだけど、代わりに?明和電機・土佐信道氏が参加していた。すばらしい。
まずは事務局からデータをプレゼン。
【メディア芸術祭について来場者からの評価】
20代50%、30代19%、19歳以下11%。若い人が多い。
来場者の8割以上が「良いと評価」{とても良い36%、良い44%、良くないの比率はとても低い}。来場者の9割が「来年も来たい」と回答。
★以下、パネラーの発言を可能な限り、曲げることなく、切ることなく、拾っている。
周囲には大手メディアの記者さんたちがたくさんいたのだけど、Blogメディアじゃなきゃできないことをやってみるつもり。個人的な意見も載せてないので、(いつもは個人的意見は★をつかって挟んでいますが)余裕があればまた書きたいところ。
浜野:
ある地方自治体からゲームのミュージアムの検討を依頼されたが、宮本氏のドンキーコングの筐体ひとつとっても、廃棄になる前にただでも頂けたようなものが、予算の数倍になってしまう状況。
マンガの原画などもそう、収集保存に関する調査(2008年・里中)もあり、同じ意識をもっていた。場所がいる、収集保存、調査研究(どういう保存)、土佐さんのように稼働させなければならない、というものある。
「どういう場所」ということで検討委員会で検討した。しかし緊急予算でお金がついた、ということを知らなかった。
他のプロジェクトかと思った。委員については必要だという共有意識を持っている。
大変貴重な税金ですから、政治家の方々の役割、決定に従うつもりである。これにしたがう。私個人はこれには意見がない。
しかしこれについては必ず必要。牧野守氏が個人資産で収集していたが、コロンビア大学に売られてしまった。日本映画の研究は日本ではできなくなった。
つい最近デンマーク政府から招聘を受けて、マンガアニメ展のオープニングに出て欲しいという依頼があり参加したが、大変有名なセル画やマンガを(図録)拝見した。これはすべてドイツの収集家から入手したという。いまこの展覧会はアメリカで行われている。「アニメ!ハイアートからポップカルチャー展(the Academy's Gallery)」。
里中:
正確に何年何月という話も思い出せなくなるぐらい前から、この話をしてきた。
疑問を持たれる方もいるとは思うが、マンガの原画というのは紙自身の劣化が激しい。
日本のマンガは、先輩方の努力と気力と情熱があった。新しい表現にチャレンジしてきたこのマンガの歴史の中で日本のマンガが育ってきたのだが、今現在発行されているマンガ、そういうものは読むことができる。しかし先輩方の作品は、大多数の日本のマンガのルネッサンス期を支えた作品はもう見ることができない。
著作権者が原画を持っている。基本的に原画は作者に戻される、ときどき作者に戻ってこずに市場に出される。1950年代のマンガ原稿はその作者やご家族の意思次第。ゴミ扱いで捨てられてしまったり、うちすてられたり、原稿の行方ははなはだ不安。調査予算もない。過去10年ぐらいは個人的に管理保存して欲しいと作家やご家族に依頼してきた。しかしあと100年たったときに、このマンガルネッサンス期を研鑽したくても作品がない。資料提供ができない。
どうしても認められたものいがいは粗末にされてしまうのかもしれないが、いまならまだ間に合う。デジタル化すれば作品の保存と検証ができるようになる。アニメもそう、日本独自の発展をしてきた、最初はジャパニメーションと言われ、少ない制作費で身につけた表現、内容それらを見ることができなくなる。たまたま海外のコレクターが集めたものがあり、有り難くお借りして、それを研究対象にすると言う状況が見えている。なるべく早い期間にそのような拠点をつくっておく必要がある。それがやがて国には大きな経済効果を生むと信じている。
皆さんのおっしゃる気持ちもわかるんです。しかし中身ついてもちゃんと理解して欲しい。何をするのかわからなければ、何をするのか、こんな少ない予算でやっていけるのかと、ここはぜひ誤解を解くためにも声を上げたいなと思った。
アニメに対して検証する場所を作る。日本の恵まれないアニメーターに優遇措置を施す方がよっぽど重要じゃないか、それはたしかにそうだ。本当にお金で満たされ見返りを得た人はわずか。しかし、今売り上げが落ちている、(口調を強く)しかしこれはおびただしい天文学的数字にのぼる違法コピーが原因だ!発行後すぐに海賊版が出回っている。本来出回るべきものを駆逐している。各国と連携しなければならない。それらを各国と、これが日本の作品だ!と海外に訴える場所が必要だ。国や政府に何処までのことができるか期待してお願いするしかない。そういうことを食い止めるためにも、我が国の作品である!著作権者はここにいる!という場所を作らなければならない。
(予算に関して)私も当初いぶかしい思いをしたものですが、表面だけでいろいろ言われるのも悲しいので、今後のメディア芸術の歴史を作っていく上でも大切なことなので理解して欲しい。場所を使わなければ体験できない、全身で体験できる、そういうアートが沢山ある。海外に持って行くときも大変です。大がかりな装置がたくさんです。そういう常設展示館がひつようなのです。
どんなモノでも人が感動すれば芸術なのです。海外の人が芸術だと言えば芸術になる日本人の風習はもうおわりにしていただきたい。贅沢言えば本当にもっと予算をかけてやりたい。しかしやがてこれは経済効果を生み、日本という国の文化をうむ。
土佐信道:
(いつもの挨拶)明和電機代表取締役社長の土佐信道です。趣味は碁です、以後よろしくお願いします。
<会場笑い>
そもそもなぜ電気屋の制服をまとってここにすわっているのかというと、これは会社ではありません、吉本興業に所属する芸術家です。小さい頃から絵描きになりたくて、日本画を勉強していたが大学には滑って、筑波大に行った。そこで技術を使ったアート、テクノロジーアート、に出会った。
日本が大好き日本文化が大好き、そこに技術というものが合体して、そこで機械を使った芸術をつくった。これはメディアアートというもの、先輩にポケモンを作った石原さん、テノリオンの岩井さんなどがいる。そこで大学を出て人に見せるときにはたと困った。日本にはこれを見せる場所が、ない!芸術よりも面白いモノが沢山ありすぎる、アニメやマンガ、お茶やお花など、そういう人たちに向けて自分が作ったモノを見せるのが大変だと言うことに気がついた。芸術家というスタイルでモノを見せるのではなく、電気屋というスタイルで制服をまとい、表現することにした。当時ソニーミュージックさんが面白いと行ってくれて、専属芸術家契約を結んで玩具を作ったり芸術作品を作ったり、コンサートをやったりと、芸術というより芸能にちかい活動をしてきた。そういう経緯。
何を言いたかったかというと、日本でなければ産まれ得なかったということ。(アニメやマンガなどに)対抗するにはどうしたらいいんだろう?自分の中では本当の芸術をやりたいと思った。日本人にどうやって伝わるか?というこのスタイルが、最近では海外での評価が高い。アメリカワシントン、南アフリカ、ノルウェーなど海外展開が非常に多くなった。「日本というのは受けてるな!」というのが何処に行っても思った。日本に受けたらどうしよう、とおもってやりつつも、もう一つ大事なことは、海外の人をびっくりさせてやろう!という思いがあった。
日本という文化とかスタイルとか面白さを、ちょっとバタ臭い思いもあって、明和電機という制服を着た。この二面性が自分の中でもあると思っている。で、こういうスタイルで私自身は16年間、喰って来れた。日本人には商品を買ってもらい、海外では読んでもらったりライブをやったり、ぶっちゃけ、収入があるわけです。日本文化という風俗をうまくパッケージ化して、海外に伝えることに成功したというわけです。
それは資源であり気がつかなければそこらにころがっているのだけれど、上手くパッケージして修練すれば、価値があるものなんだということがわかった。しかし日本人にはわからないものなんだろうと思う。マンガやゲームにどっぷりつかっている人は、資源であることに気がつかない。しかしこれを上手くパッケージすることができれば、糧として伝わることができると確信している。難しい面があると思う。自分の体験でも、芸術というモノを同じように表現しても、日本人と海外のとらえ方は違う。海外では日本のテイストを深く感じられるが、同じように、日本人に日本のテイストを伝えるのはとても難しいと思う。
このセンターも、同じように難しい。日本人をおもしろがらせることと、海外の人をおもしろがらせるのは違う。しかし中心にあるのは、マンガもアニメも、私も大きな影響を受けた、これをほったらかすこともないだろうと思う。技術というモノに付随して進化している。技術の進化によって、どんなにすばらしいモノも消えていってしまう。サンノゼにコンピューターミュージアムがある。ありとあらゆるコンピューターが倉庫に放り込んである。技術が古くなると言うことと、そこから引っ張り出して学ぶと言うことは違うこと。日本人のいましかみれない、と言う良さもあるが、テクノロジーアートというのはそういうのと全く同じ要素がある。
森山:
今、土佐さんのほうから話が出たように、80年代からボトムアップで取り組んできた。メディアアートの成立と展開を目の当たりにして、辛い時期もあったが、作り手と共に歩んできた。私も土佐さんと同じ筑波大にいて(3年上ですが)、多数のすばらしいメディアアート領域の人々がまわりにいて、そういうかたがたの作品を顕彰する場がない、ということを感じていた。メディアアートということばの意味から言うと…「Media Arts」と複数形で言うと、メディア芸術(マンガ、アニメ、ゲームなど)、「Media Art」と単数形で言うとファインアートの一領域としてのメディアアートになる。メディアアートとはおもにコンピューターなど複製可能芸術時代以降のメディアを表現媒体として使っている芸術である。国内外のレクチャー等ではこう説明している。
日本には光と影のゆたかな歴史があり、影絵や写し絵、だまし絵、巻物にはじまるアニメーション、3Dや立体視、VRにつながる分野など大きな広がりがある。作る対象に魂を込める日本の「わざとこころ」、アート&テクノロジーとも呼ばれています。戦後日本の前衛芸術グループがすでに今の若いアーティストが試みていたような作品を発信していたことに始まるアート&テクノロジーでいうと我々アラフォーは第3世代ぐらい。大阪万博をみて、パビリオンのプロデューサーとして活躍した第一世代(岡本太郎、横尾忠則、山口勝弘ら)を先生として学び、影響を受けた。在学中につくば科学博やビデオアートの隆盛もあった。今は私たちの教え子の教え子の世代、第5世代ぐらいが活躍している。
80年代の終わりに映像部門を持っている美術館はあったが、複合文化施設の機能をもったものがない。日本には元々、視覚芸術がたくさんあった。現代的なものでいえばバーチャルリアリティ、メディア芸術領域に含まれるアニメ、マンガ、ゲームなどエンターテインメントと、温故知新のできるアート&テクノロジーとは両輪の関係にある。だからこそ熱く海外で評価される。社会の装置としての拠点がいよいよ実現する。
東京都写真美術館においても、文化庁メディア芸術祭を誘致し、入場者的にも大きな実績を得た。「アルスエレクトロニカやSIGGRAPHなどで活躍する日本の若い才能を、"日本で紹介する拠点"がない!」と言うことで(開催した独自企画とあわせて)、第10回の(メディア芸術祭)では6万7千人ぐらいの入場者を得た。
このような活動は(長い目で見ればエンタテイメントへの領域も影響がある)メディアアートとエンターテインメントとはどちらが欠けても成り立たない両輪の関係である。いま画像を出しているのはアルスエレクトロニカセンターですが…社会とともに発展してきた、30周年を迎えるフェスティバルであり、日本の入賞者も180人ぐらいになるが日本にはまたこのような施設は成立していない。
アルスにはフューチャーラボという研究機関もある。施設中で独自に展示支援を開発したり、企業のITコンサルをやったりして売っていける、経済効果もあるような複合的な文化施設である。日本のこの領域には大きな力があるのに、このような施設はまだ成立していない。縦割り的にマンガはマンガ、アニメはアニメ、というのはあるがメタ的な視点で統合できるヘッドクォーターがない。
福祉と芸術どちらをとるのか?という単純な二項対立で選択を迫られる局面が過去に多くあってとても大変であったが、経済危機を受けたときにも、マンガやアートやメディアアートが社会に対してできること、与える影響は非常に大きいと思う。2002年から映像メディアは小中高の美術教育の中に含まれており、21世紀最初の10年も過ぎようとしている今、そろそろキャリアパスや成果を考えて出さなければならない。医療や福祉と対立させるのではなく、共存可能だと考える。メディアアートやメディア芸術にはそれができる。
テクノロジーに魂を込める、わざとこころを今こそ発揮させて、既存の研究機関、大学、自治体のアーカイブが成立しつつあるので、それらと社会的な連携を持って成立させていくべきだ。今まで主流を占めた予算をいくらかけて入場者がいくらかという定数的な評価ではなく、メディア芸術はどれだけ創造力・想像力を与えたかという定性的に評価しなければならない。MITメディアラボが企業からお金を取って、一定期間に開発された成果は全出資企業が共有できる、クリエイティブに開発して、企業に戻していく、そういった流れも作られている。この力を次の世代に伝えられる機会にするべきだと思う。
言葉の意味も、みんなと一緒に考えていけるべきだろう。
メディアの皆さんにはフィードバックの協力をお願いしたい。
浜野:報告書について、具体的な名称と絵が入っているが全ての委員が削除を求めたが、例えばこういうコトならできます、ということで納得したのであり、あくまでも例である!決めたことではない!と確約いただいた。議事録に載っている。場所とイメージはあくまで案であって、決定ではない。場所の必然性についてもいろいろな議論がある。これから議論しようという状況。この辺は委員の皆さんに大変迷惑をかけている。あくまで案であり、仮称である。皆さんボランティアなので16時を目処に質問を受けたい。
15:28 2009/06/04
以下記者質問
朝日新聞小原:
箱物という批判があるのは、建設だけして、運営予算がないという点が言われているのだと思う。60万人、年間1億5千万でやれという中身ですね。現代美術館の例など考えても、入場者収入だけでやっていくという施設の維持管理人件費しかまかなえないのでは。だったらこのお金の使い方を考えるべき。浜野さん里中さんどうでしょう?
浜野:映像系の委員の方々も、同じことをおっしゃいました。私個人としては様々なアイディアがあって、民間に貸すとか寄付を頂くとか、日本のミュージアムにも海外にも例は沢山ある。ご指摘はおっしゃるとおりだと思う。箱物を作るよりも他に回した方が良い、というのはご指摘が違う。長期的に見れば大変大きな国の財産になると考えている。
里中:箱物という言葉がマイナスイメージでとらえられるようになったのはこの10年ぐらいだと思うが、素人なりにいろいろ考えたことはある。しかし箱がなければできないこともあるわけで。マンガの中身を見ていただく、著作権者や出版社によいようなWeb上のものもかんがえている。しかし劣化していく原稿を収めておく場所というのは絶対必要である。全国にマンガミュージアムなど沢山できているが、規模とか、この先を考えると、箱というと確かに箱なんでしょうけど、箱でなければできないこともあると思いますので。箱物をちゃんと作るに仕手は、私は素人なので、経営とかわからないんですけど、お金はなるだけ沢山あった方が良いと言うことはたしかなのです。著作権クリアにしたりとか、小さいイベントをやっても億の単位でかかるのに、ないところで少ないところで工夫する、マンガもアニメもそうやってきた、と言うことを考えるのではなく工夫することで、やることが自分たちがやることだと思っている。経営はとてもできると思っていないが、工夫して効果が上がるということは素敵だとおもう。ここまでのことが決まった、というところであり、私自身がイメージできていないが。
森山:今は公立館も独自の財源を確保しなくてはならない状況。海外だと財源になるモノが、日本の行政だとできないというものもある。例えば、従来は公立館は企業からの収入を得ても、予測されなかった収入として雑収入として地方自治体に戻していたが、そういう点が改善されれば。東京都写真美術館の場合は法人会員などをつくって独自の財源で作品を購入したり展示をやって、美術館ランキング(日経新聞開催)でも評価された。こういうことは日本でも進めていくべきで、ニューヨーク近代美術館のように個人で大きなお金や作品を寄付すればそれに対して税制優遇があるなど、システムも整備されていくべき。ギャラリーに寄進者の名前を掲出するなど、出資者のステイタスとして貢献をアピールする方法があるが、このようなものを日本的ないい形にして取り入れていくような、独自の財源を確保する手段をディスカッションしていきたい。ドイツのZKMは10の研究所がある。町全体から浮いていない構造がある。地元のトラムの電力を施設の屋根の太陽電池でまかなっていたりする。日本ではテクノロジーがある、そういう行った形をディスカッションしたい。
日本経済新聞諸岡:
先日中堅アニメ会社に取材したところ。いままさにジャパニメーションをつくっているが大変。動画が海外に流出していて、今年の末にもつぶれそうだと言う状況。ここで海外に発信する必要がどこに?アニメ製作会社、マンガの現場も同じ、いろんな有名雑誌が廃刊している、分母がなくなる状況で、人材育成に優先順位をつけるべきと言う状況でどう考えるか。
浜野:まずジャパニメーションというのは、JAPのアニメーションという差別用語。絶対使わないで欲しい。我々は我々の研究費をつかって、給与の調査も行った。研究会も我々が運営してきた。だから場所は大事だと考えている。我々の自助努力、自分たちの腕前で生きている。場所があれば研修とか会合とか打合せとか、アニメーターの自主的な作品の打合せもできる。大変な状況であると言うことはわかる友人もたくさんいる。本当にそういうの待ってた、という立場の人もいることを知って欲しい。
里中:何も一度期に一個しかできないと言うこともなくて。漫画家の生活、などなど大変厳しいのですが、漫画家の生活ってプロになって45年あったのですが、いつも厳しいんです。厳しくなかったことがない。じゃあお金がなくてもやれるんだろう、と言うことではなくて、制作費は必要。生涯賃金は勤めてきた人に比べて格段に下。その中から産まれてきた作品も沢山ある。保証があればできるということもいえないだろう。漫画家の税瀬は、くだらない話だが製造業といっしょ。夜中に仕事して食事を出すのは社員食堂的な経費にならない。250円分しか税金の控除にならない。非常にささやかな話をしているが、税制の面でも既存の職業、全て前例に合わせてあてはめていくといろんな不都合がある。本が売れたら税金を納めますが、何の社会保障も得られないまま生きている漫画家も沢山ある。どこも書いてもない原稿を、二束三文で古本屋に売ってしまう。年老いたときに引き取ります、という保証があれば、どれだけ安心して仕事ができるかということもあるだろう。なまじ知っているからこそ言えるのは、マンガもアニメも現場は本当に大変。若い人にとって夢と希望があふれる場所であって欲しい。半永久的に語り継がれて引き継がれていくべきと思う。そのお金をこっちに使えばいいだろう、というのは全てにおいてあって、それでは何も前には進まないだろう。若くて何も保証がなくて、頑張りたいという人、その人たちへの税制や保障などどうにかしたい。しかしこれは、これとくっつけて考える話ではないだろう。マンガとアニメだけなんか優遇するのか?と言う話になってしまいますよね?他の分野と合わせて考える必要がある。私もこの問題は一生懸命考えてきたが、そんなの何とかして欲しい、と気持ちはわかる。しかしわけて考えることで進むこともある。今後長い目で考えてみれば、文化や社会とつながることもできたと考えられることもあるだろう。物の見方にはいろいろあって、みんなよかれと思って言っていると思うが、対立とかじゃなくて、みんなで考える良い機会になれば、とそう思う。
土佐:ボクは芸術の分野でしか話はできないのですが、芸術家として喰っていくためには、個人事業主。美大で教えて欲しかったのは「確定申告」だけど、学校で教えてくれたのはアート論。崇高なアート論だけ教えてくれた。現場で学んでいって今に至る。売れる物を作っていないから、大衆が欲しいと思ったらお金はらう。なんか魅力がないから、それからインターネットが出てきて簡単に複製することができるから。波メディアが持っている宿命というか仕方がないところでもある。じゃあいま、どうやってインターネットで作ったモノからお金を集めるか、を考えなければならない。そういうテクノロジー、メディアというテクノロジーにのって表現すると言うことで進化したモノなので、これから考えていかなければならない。里中さんが言ったように、労働と文化の問題は別。メディア芸術センターというのはもっと大きな話で、本当に。火薬という壮大な武器が海外から入ってきて、それですごい武器を作っていれば大成したモノを、日本人はそれで花火をつくってきれいなモノをたくさんつくって、黒船が来たときに対抗できなかったのだけど。いまは花火を作る話、大砲を作る話ではなく花火を作る話、このほうがロマンがあるとおもう。
NHK本田:
先生方のおっしゃるように議論をしていて、お金がついて、それが不透明で、こうなっているのだが、今後どのように議論していくのか聞かせて欲しい。
浜野:それは最後の委員会で委員からも質問があった。これで終わりなんですか?と。もう一回検討します、と言うお話でした。これから始まる。名称、場所も含めて。必要性について議論したと言うところで終わっている。これからだと私は理解している。これは余分な話ですが、黒澤明は生涯にわたって、これが必要だと言っていた。橋本さんもすすめていて、文化庁も決定していたのに、できませんでした、と言う話。参照して欲しい。私は誤解していて、マンガとかアニメとかどうして我々の先人はしてくれなかったのかと、杉並区にかけあってミュージアムができた。我々の先祖がそういう努力をした!と言うことを残したいのだ!黒澤さんが国立で、というそういう思いで死なれた。国民の意見ですから待っているだけですから反対しない。しかし委員の思いは、これからである、という状態である。
里中:自分の思いが強いからと言って正義だと思わない。TVをつけると「ええー!」という誤解があるんじゃないかなということがある。私だって思い違いをしていることもある。どこかであつまっていろんな意見を出し合って、実現していくべき。文化プライド経済的な面からもあったのに、みすみす逃してきたということがなんどもある。それが「たかが映画、たかがアニメ、たかがゲーム」という土壌で、はっと気がつくと、海外のほうがちゃんと資料を持っていると言う状況。我々には資源がない、資源がないと言うが、文化力というものがある。海賊版に利益を持って行かれようとも、日本人の感性とか心を理解していただく、非常に重要なツールである。
海外の方がたが日本人という民族を理解する上で、私たちの世代が戦後間もない時代に、アメリカ映画を見て感動したことで、どれだけアメリカという国に影響を受けたか。これが愛、これが正義、これがアメリカ人というものが映画やドラマから入ってきた。これがアメリカ人というものを理解させた。今、かつて日本と過去の歴史的関係から政治的にはあまりいい思いを持っていない若者たちにとって「あれはあの頃の日本の体制がそうだったのだな」と理解するどれほど大切なツールになっているか。日本人が怖かったけれども、そうではないのだなと言うことを海外に行くとよく伝えられる。
海賊版、違法コピーであるとはいえ、心が理解され喜ばれている、ということは理解しているが。そろそろ、紙媒体の売れ行きが落ちている、デジタルと言うことを利用して、経済的な見返りが出るよう、ディスカッションしていけたらいいなとおもう。確かに予想図というのは「えー」とおもったが。決まっていないから、かつての映画の時に流れちゃうかもしれないと思っているが。
浜野:四谷の韓国文化院というのができるわけです。ご批判は歓迎、何も決まっていないのだから。ご批判は甘んじて受けるが、文化のこととしては大変大事なことだと思っている。その辺は言葉足らずだとは思うが、今日はお集まりいただきありがとうございました。
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以上。
自分でも驚くぐらい、発言者のそのままを記録できたとおもう。
実際の活字メディアに載って、この発言にどう尾ひれが追加されていくのか、観察したい。
それから皆さんご意見があるなら、このアンケートに書いていただきたいです。
http://ameblo.jp/akihiko/entry-10273481795.html
コメント欄はSPAMに荒らされてしまい、削除するのも大変だし、読む上でも役に立ちません。
最後にちょっとだけ、自分の意見を述べたい。
・みんな、最近ミュージアム行ってる?
新聞屋さん、本当に、行ってますか?本質、とらえてますか?
・最新のミュージアムは体験し、語り合い、共有する場です。
もちろんアーカイブもあって良いと思うけど。
・メディア芸術の本質
ディスカッションして、共有して、発見して、という「研究」がメディア芸術の本質だと思います。
頭の固い大先生が作ったダメ企画にはみんなで「大失敗して学んでもらう」というチャンスがあります。
イベントやワークショップもそうです。ミュージアムのような場所はそのためにある。
・ウチの職場をみていると、やはり内国向け以外に、海外のお客さん向けに発信!というのは重要ですね。
そのお客さんの反応を通して、自分の国を発見すると言うことも大事。
...と言う意味では名作マンガの各国版の出版が収集されているなら、すっげー意味あると思う。
比較文化論とか言語論とか、歴史とかも一気に扱えるよね。
里中さんの話を聞いていて思ったが「はだしのゲン」は各国語版で共有されるべき。ディスカッションもあるべき。
・「メディア芸術」に対するディスカッションはマスメディア各位も巻き込まれるべき。
それもできるだけ、良い形で巻き込まれるべき。
論調、定義、ディスカッション、など政治家の材料にされるのではなく、
ポジティブにメディア芸術を応援できるかできないか、
「ウチのメディアはメディア芸術を応援しています!」などバナーなどで表示すべきだと思う。
逆に、ガンダムブームには乗るけど、文化のアーカイブなんて経済モデルで淘汰されちゃいな、
という姿勢を持っている活字メディアは、文化面とか夕刊とか、自分たちの立ち位置をよく考えて欲しい。
・117億円でやれることは、本当に小さいかもしれないが、個人や作家や新聞社は箱は作れない。
作っても良いが、どうやって維持していくのか。国民全体の資産としてどう後押しさせるのか。そこが問題。
この件については自分も苦しいが、そのへんの「ミュージアムの専門家」がどんどん入っていくべきだろうな。
この金額でできる、適切な規模というのがありますよ。
でもみんなが価値を見いだして、応援されれば、継続的にどんどんお金がついて、
それが産業を押し上げていくだろうな、というポテンシャルは感じる。みんなも感じろ。
(20万ちょいの手取り給料のうち、家賃と食費ひいたあと、そのあと何に消えてる?)
・文化と政策支援
国がアニメに国費を投入したら、どうなるか。
ゼネコン的に管理できるなら成り立つのかもしれないが、本当にそれで良いのかな。
既存のビジネスモデルにデフレタイフーンを吹かせている構造なんてのは、金子先生(前・工科大)も長年言い続けていることであって。土佐社長の「おもしろいもの」を作るというところが、結構本質で。新しい価値観とか、新しいビジネスモデルの創出ができてないから沈むんですよね。コピられるなどの外的要因も含めて。
・そういう意味で
土佐社長はいずれ、無形文化財に指定される可能性があるわけです。何処の国からかわからないけど。
そうやって「さわれない文化財」になってから、コミュニケーションや、有り難いお話をしようったって、無理です。
だからミュージアムで、作品や魂に接したり、共有したりする必要があるんです。
毎日拝んでいた仏像が、あるひとつぜん文化財になるとどうなるか(しかも誰も儲からない!)。
マンガが好きなら「ギャラリーフェイク」とか読んで勉強すると良いです。
・医療とか福祉とか
かわいそうな母子家庭に5000円を配っても「それはゲームかマンガに消えている」という思考はできないか。
依然、VRで重度先天障害をもった某国立医療センターに長期入院している子供たちを「外に連れ出す」という地域主導型のイベントに参加したことがあるけど、「20歳まで生きられない」って言われている子供たちが『将来おにいさんたちみたいな、こういうのを作る大学生になるよ!!』っていって大学進学目指していたなんて話をちょっとだけ持ち出してみる。メディア芸術が生きる糧になることだってあるのだ。
・対マスメディアとか
モチベーションとか、魂とか。そういうものを活字メディアは無視している。無視しても良いが、そこで無視することが、いまの日本の経済をネガティブタイフーンに回しているってこと、気づいて欲しい。応援する姿勢。「魂」以外でマインドやスピリッツやハートという言葉をちゃんと伝える活字を、探して欲しい。
・政治家とか
叩かなきゃいけない相手は、そこではないぞ。
みんなの目の前に突き出された、情報とその理解ではないかい?
マスメディアも含めて、文化の本質と、日本社会の未熟さが試されているんだよ。
・自分のこと
私が写真工学とか某工芸大みたいな工学部に進学させてもらえたのは、何を隠そう、当時退職したばかりの父親が当時、はじまったばかりだった写真美術館の映像ワークショップに参加したことだった。あれがなかったら、私の父親間いまでも映像に理解はなかったかもしれない。当然今の自分もいない。今日の今日まで、その事実に対して、感謝しようと思ったことはないが、今日は気がついた。ありがとう映像文化とそのときのワークショップの先生、それから写真美術館という「箱」。
某未来館は、2001年にできたばかりのときに、当時の指導教官である佐藤誠先生に連れて行ってもらった。そのとき「先生、私、ここに展示物もってこれるようになります!」って言った覚えがある。いまはなんだかちょっと違う形だけども、「夢を抱ける頂点のような場所」、平たく言えば「殿堂」が必要だってコト。
大学のメディアアート関係で講義してたりすると、学生たちが何を目指して制作活動していいか、わからなくなることがある。「Webクリエイターになりたい」、「ゲームクリエイターになりたい」それはいいんだけど、成った瞬間にその夢は終わってしまうんだよ。世界の頂点?どこにあるんだろうな。いろいろ世界中まわってみていたり、もっと世界中で飛び回っているメディアアート、テクノロジーアート、先端メディア技術の研究者など、同士たちがマイミクにたくさんいるけど、世界一!ってのは実は世界を飛び回ることだけではなくて、日本人に、日本社会に、認めさせて、共有できるところまで持って行くコトなんだと思う。
そういう意味では里中さんはカッコイイ。Blogもすごくしっかりしている。
http://satonaka-machiko.seesaa.net/article/120006495.html
↑このエントリーだけではないです
ご自身のマンガ、作風はそんな感じじゃないので、そこまで考えたことなかったのだけど、
きっと何人もの編集者と血を血で洗うような闘いをしてきたり、
ときには上手くいなしたり、百戦錬磨してきたんだと感じた。
島本一彦のように、自分自身の人生と戦うためのエネルギーをくれた作家はえらい。
さらに大金持ちになった漫画家には、すげーな、とはおもうけど、それ以上の意識はない。
しかしこれから「ディスカッションが始まる」であろうこのセンターに
私財投入しちゃった、作品を無償で寄贈したり、といったことをする漫画家がいたら、本当に凄い。
これは尊敬に値する。作家の作品の質を超えて、尊敬する。
しかし、常に逆風、常に、貧乏であっても、
こうやって、先輩諸氏に対する経緯と、価値と、思いを伝え続ける活動をする
里中氏はもっと尊敬されるべきだと思う。激しく見直した。
だいぶ私情を挟んでしまったけど、まあここは私のBlogなので許して欲しい。
ここまで読んで、何か言いたくなった人は、アンケートに参加して欲しい。
http://ameblo.jp/akihiko/entry-10273481795.html
ネットを通して、いろんな立場で熱く語ること、
それ自身が「ネットワーク・メディアアート」と呼ばれていた頃だってあるんだから。
★このエントリーに限って、コミュニケーション目的で、トラックバックを試験的に開いてみます。汚いSPAMはヒマがあったら消しますが、見苦しいモノや怪しいモノはクリックしないでくださいね。