田中葵は、新しいマンションに引っ越してきたばかりだった。都心から少し離れた静かな場所で、長い間夢見ていた一人暮らしがついに始まった。新しい生活に胸を躍らせていた葵は、さっそく部屋のインテリアを整え、気持ちよく新生活をスタートさせた。

だが、部屋には一つだけ、どうしても落ち着かない場所があった。それは、玄関脇に設置されていた大きな古い鏡だった。もともと部屋に備え付けられていたもので、取り外すことはできなかったが、どこか不気味な雰囲気を漂わせていた。

葵は特に気にしないようにしていたが、引っ越してから数日が経つと、その鏡に異変を感じ始めた。朝、出かける前にふと鏡を見ると、自分の後ろに誰もいないはずの人影が映ることがあったのだ。振り返ると何もないが、鏡越しには確かに誰かが立っているように見えた。

「気のせいだよね…」と自分に言い聞かせ、深く考えないようにしたが、鏡を見るたびにその人影はますますはっきりと見えるようになった。

ある日、葵は決心して鏡をじっくりと見つめた。その時、はっきりと目にしたのは、自分の背後に立つ少女の姿だった。彼女は10代くらいの年齢で、白いワンピースを着ており、長い黒髪をたらしていた。少女はじっと葵を見つめ、何も言わずに立っているだけだった。

「誰…?」葵は恐怖を感じながらも、鏡に映る少女に声をかけた。だが、少女は一言も発しなかった。

その夜、葵はなかなか眠りにつけなかった。あの鏡に映る少女のことが頭から離れなかったのだ。なぜあの少女が鏡に映るのか、何のためにそこにいるのか、全く分からなかった。

次の日も鏡には変わらず少女が映っていた。しかし、その日はいつもと違っていた。少女が葵に向かって口を開いたのだ。

「私を、ここから出して。」

その一言に、葵は心臓が凍りつくような恐怖を感じた。出してほしいという少女の願いが何を意味するのか、彼女には分からなかった。どうしてこんなことが起こるのか、現実とは思えなかった。

「ここから出すって…どういうこと?」葵は声を震わせながら尋ねたが、少女はそれ以上何も言わなかった。

その日から、葵は鏡を見るのが怖くなり、できるだけ避けるようになった。しかし、鏡に映る少女の存在は消えず、むしろ次第に強くなっていった。夜になると、鏡の前で誰かが立っているような気配を感じ、家の中で物音が聞こえるようになった。

「これ以上、もう耐えられない…」

葵はついに決断し、鏡を布で覆うことにした。見えなければ安心できると思ったのだ。しかし、その夜、彼女は奇妙な夢を見た。

夢の中で、彼女は暗い部屋の中に立っていた。目の前にはあの鏡があり、その中には少女がいる。少女は手を伸ばし、必死に外へ出ようとしていた。

「お願い、ここから出して…」

夢の中で葵はどうすることもできず、ただ立ち尽くしていた。目が覚めた時、彼女は冷や汗をかきながら、自分がベッドから転がり落ちていたことに気づいた。部屋の中は暗く静かで、鏡は相変わらず布で覆われていた。

「もう、あの鏡を捨てるしかない…」そう思った葵は、翌朝、鏡を取り外して処分することを決意した。しかし、いくら力を入れても鏡はびくともしなかった。まるで壁に溶け込んでいるかのように、鏡はしっかりと固定されていたのだ。

どうしても鏡を動かせないことに気づいた葵は、最後の手段として、鏡の前で再び少女に話しかけた。

「どうすればいいの?どうやって、あなたをここから出せばいいの…?」

その時、少女は初めてはっきりと答えた。「私と、交換して。」

葵はその言葉の意味を理解できなかった。しかし、その瞬間、鏡の中で少女が手を差し出してきた。彼女の手は、まるで鏡を通り抜けているかのように、現実の世界に伸びてきたのだ。

「私の手を取れば、私は自由になれる。そして、あなたはここに残る。」

葵はその提案に恐怖を覚え、後ずさりしたが、次の瞬間には、もう逃げられないことを悟った。少女の手は彼女の腕をつかみ、冷たい感触が彼女の体を貫いた。

「やめて…!」葵は叫んだが、すでに遅かった。鏡の中の少女は彼女を引き込み、次第に視界がぼやけていった。

気づけば、葵は鏡の中にいた。目の前には、まるで何事もなかったかのように普通に生活する自分の姿、つまり、あの少女が彼女の姿で生活しているのが見えた。

彼女は鏡の中から必死に叫んだが、もう誰にもその声は届かなかった。少女は葵の体を手に入れ、彼女の生活を送り始めた。そして、葵は鏡の中で、永遠に出ることのできない存在となってしまった。

鏡の外では、何事もなかったかのように日常が続いていた。