久しぶりに母と出掛けた。

車の中で

母が相変わらず

ずっと自分の話をして

わたしは聞き役だ。


そして、心の中で

別の事考えてても

聞いてるふりもできるが


子供の頃は

きつかったろうなと

思ったら

ハートがキュッとなって

この感覚はダンナさんと

話している時と似てるって

思った。


興味ない話しを

ただえんえんと聞かされて

こちらの心には興味がない。

つまらなそうにしてようが

おかまいなし。


母なら呆れつつも

きちんと聞くふりができるのに

(昔は意見したけど変わらないからやめた)


ダンナさんだと

聞いてて、イライラしてきて

止まらなくなる。

そして

興味なさそうに

聞いてしまうし

心の中で

なに、言ってんだか。

って思っちゃうから

気分がよくない。


今日も帰ってきてから

そうなって、

噛み合わなさに

お互い、イライラしてきて

言葉がきつくなる。


わたしは

じぶんには北斗晶キャラが

お似合いなのだ

と思うことにした。

昔、癒し系と言われたのは

本質ではなかったのだと。


それでも、どうにかしたい

気持ちは収まらず

フェリファブ哲学さんを読む。


意味を外す。

意味とエネルギーで

感情なんだそうだ。

意味によって、

自分の価値が下がると思うと、

不快な感情がでるが


そもそも、価値は上がったり

下がったりするものではなく

常に素晴らしい価値がある。


これが大前提となる。


わたしの場合は

興味のないはなしを聞かされる。

こちらには興味なしの態度は


わたしは大切にされてない

愛されてない


の意味をつけている。

この意味が

わたしの価値を下げるものとして

捉えているから

気分が悪くなる。


この意味

愛されてないと無価値

を外す。

母や夫がわたしを

もし

仮に、愛してないとしても

わたしの価値は1ミリも下がらない。


そして、湧いてきた感情だけを

エネルギーとして

味わうという

手法で

深呼吸してみると


なんだか、ホッとして

それが、なんだか、どうでも

よくなってきたぞ。

ちょっと、不快になった意味を探す

練習が必要かも。

それが自分を観るってことなのかな。

今さら感、ハンパないが

やってみよう。


職場のあの人の

鋭い目線も

そういうものもらう自分は

よくないものっていう意味と

くっつけてるから

気分が悪くなるのだ。


わたしと切り離していい、

ただの怖い目、

わたしの価値は下がらない。