自分の中学時代ってどうだったんだろう?と、考えるときがあります。
子供たちには、大人になった今の価値観で向き合っていますが、私自身が中学3年の時はどんなことを考えていたのだろう。
私が中学3年の時の三者面談はすべて保護者なしで、つまり担任と私の二者面談でした。
私は養子で、母と上手くいっていませんでした。
母は保護者会はもちろん、授業参観などの学校行事に来ませんでした。
小学生のときや中学入学当初は来ていましたが、中学3年のときの進路決定は自分で決めていました。
母に言われていたのが、大学進学は無理。
普通科に行くよりも、商業科などに行き高校を卒業したら就職することを希望している。
公立高校はもちろん、すべりどめの私立受験はあり得ない。
私はまだ子供で、世の中の仕組みもわかっているつもりで全然わかっておらず、今、思い返せば、違う選択もたくさんありました。
私は養子でしたが、育ててくれた両親に実子はおらず、本当の子供として育ててくれようとしていました。
そして、父は国内有数の電気メーカーに勤めていたので、私が大学進学できるぐらいの収入はあったはずです。
タラレバですが、私が母の望むような娘であれば、高校選択は大きく変わっていたと思います。
ただ、あの頃の私は自分なりに一生懸命考え、自分の中では最適な判断をしたつもりです。
だからこそ、あの時の進路選択に後悔はありません。
病院通いをしていた祖母の『(私が)看護婦さんだったらいいのに』という言葉と『キャンディ・キャンディ』の影響と、手っ取り早く卒業すればお金が稼げるという理由で、私はナースになろうと動き始めました。
そのナースも、今の私ならば普通科→大学進学→国家試験を選択すると思いますが、当時の私はいかに短期間で親の負担が少なくナースになれるかを基準に考えていました。
医師会の准看護学院の願書を取りに行ったりもしました。
進路希望の欄にも第一志望『○○高校衛生看護科』第二志望『医師会准看護学院』と書きました。
担任に准看護学院はちょっと…と言われると、第一志望のみを書き続けていました。
もちろん、すべりどめは?と聞かれましたが、『うちは私立は無理です。公立一本で行きます。』と答えていました。
今でこそ、都立高校の推薦枠は当たり前にありますが、私の頃は推薦枠のある高校は特殊な学科のみで県内で数校だけでした。
たまたま志望校の衛生看護科は推薦枠があり、成績がそれほど悪くなかった私は推薦での合格を狙っていました。
内申書という言葉はありましたが、内申点とかあったかどうかもわかりません。
ただ、私はだらしがなく遅刻常習犯でした。
ほぼ毎日、遅刻をしていました。
剣道部の顧問だった担任に毎日のように竹刀でお尻を叩かれていても改善しませんでした。
今なら体罰であり得ない話ですが、体罰でも変わらない生徒は変わらないというサンプルです。余談ですが。
遅刻常習犯の私は推薦してもらえないかもと思いましたが、(だったら遅刻すんなよ‼️)推薦してもらえました。ただ、進路決定の時に担任が言った言葉に私は驚きました。
『おまえだったら、もっと上の高校に行けるのに』
そうなの?
もちろん今でいうトップ校は無理だと思いますが、二番手校なら…
あー、そうなの?へ?
だったら、言ってよ❗️
タイムマシンがあったら、私はあの頃の私に言いに行きますね。
『普通科へ行って、大学進学しとけ。
大学の看護科に行った方が将来、進路が広がるよ。
親のお金?お前んち、お父ちゃんは金持ちだから大丈夫。
お前、実はお嬢様なんだよ。今はわからないかも知れないけど、かなりすごいからな❗️
お母ちゃん?
顔色見てビクビクすんなよ。
言いたいことはハッキリ言っとけ。したいこと、やりたいことは遠慮しても仕方ないから、ダメ元で言え❗️ケンカになってもいいんだよ。けっきょく、黙ってバレて怒られるなら、正直に言ってはじめから怒られろ。子供がワガママ言うのは当たり前。あきらめるな❗️』
続く