うつ病とがん患者の家族としての私

うつ病とがん患者の家族としての私

2008年3月うつ病になりました。父が2010年8月に肺がん(肺扁平上皮癌)であることがわかりました。

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父の希望により、仮通夜から告別式まで自宅ですることになり、近所の方に協力のお願いに行きました。

お願いが終わり、実家に帰った瞬間、父が「今だったか、ご苦労さん」と家の中から言ってきたような気がしました。

父は居間のソファーに座りながら、外の様子を眺めるのが好きでした。

その姿を庭先から見ることが出来たのですが、そのソファーから語りかけてきた気がしました。

本通夜の日、実家は鯉を数十匹飼っているのですが、その鯉が半分近く死んでいました。

不思議な現象にみんなびっくりしていましたが、よくあることらしいです。

飼い主があちらの世界へ連れて行くんだそうです。

他にも、父がなくなる日の明け方に、カラスが大群でガーガー鳴きながら飛んでいたという話も聞きました。

父が病院から帰宅した頃から、とんびが実家の上空を飛んでおり、数日間、実家付近から離れることはありませんでした。

滅多にとんびを見ることはないのですが、何故このタイミングで?と思ってしまいました。

 

告別式、出棺、火葬、収骨と滞ることなく終わりました。

収骨のとき、食道に留置したステントが残っていました。

本当に父の骨なんだと確認できました。

火葬場の係員の方が、左の大腿骨を見ながら、「足が悪かったのですか?」と尋ねてきました。

私は「悪くはなかったのですがどうしてですか?」と答えると

その係員が、「見てください、色が悪いでしょう。病気の部分がよく茶色や黒色になってるんですよ。」と言ってきました。

もしかして骨に転移していたのではと思いました。

胸の部分や頭の部分の焼け跡は薄い茶色になっていましたが、その部分の骨は白色でした。

それが転移だとすると、骨、脳、食道の三か所に転移したことになります。

がんという病気は本当に怖い病気です。

亡くなる2日前、こん睡状態になりました。

その直前、私の名前を何度も呼んだそうです。

その時、私は一時帰宅しており、母からの電話で急いで病院に向かいましたが、着いた時には父は眠っていました。

それから亡くなるまで目を覚ますことはなく、結局、最後、私に何を伝えたかったのか今でも分かりません。

 

亡くなる当日、サチュレーションは測定できなくなりました。

尿の量が極端に少なくなりました。

手足の爪の色が青白くなりました。

肩でしていた呼吸が、顎だけでするようになりました。

一呼吸の間隔が異常に長くなりました。

その状態を見て、私は「もう一回呼吸をして、その調子。もう一回」と父の耳元で何度も言っていました。

呼吸をしなくなるまで・・・。

11時25分、呼吸が止まり、呼吸が止まっても辛うじて首の脈が動いていましたが、それも動かなくなりました。

危篤状態になりちょうど1週間、家族全員の協力により最後まで父に付き添うことが出来ました。

20分後に医師が父のもとを訪れ、死亡確認が終わった瞬間、涙がいっきに溢れてきました。

もう話すことはできない・・・

もう一度一緒に晩酌をしたかった・・・

いろんなことを教えてほしかった・・・

などなど、後悔や願望が私の頭の中を一瞬にして占領していました。

頭の中が真っ白といった状態にはなりませんでした。

 

しばらくすると、看護師と元看護師の姉が、父の体を拭くなどして帰る準備をしてくれました。

私も父のひげを剃りました。

最初で最後の父のひげ剃りでした。

 

葬儀社の方が病室まで迎えに来て、病院を後にすることになりました。

家族を代表して、私が医師や看護師に対して「本当にお世話になりました。ありがとうございました。亡くなるまでの1週間、付き添う事が出来ましたので悔いはありません。本当にありがとうございました。」と、感謝の気持ちを述べましたが、悔いがあるのに無いと嘘を言いました。

今でも何でそんなことを言ったのか分かりません。

ただ、もうこの病院には来たくないという思いはありました。

いろんな人が面会に来てくれました。

 

それぞれ面会日時は違いましたが、脳梗塞で左半分が不自由となり車椅子がないと移動できない父の姉、遠方に住んでいる父の妹、わざわざ面会に来た時、まったく同じ対応をした父。

心配しなくていいから早く帰れ。もういいから、分かったから早く帰れと言っていました。

自分の姉妹には最後まで強がって見せた父でした。

 

父の同級生が面会に来てくれた時、びっくりしましたが、大きな声ではっきりと「あとは頼んだ」と言いました。

亡くなってから遺品を整理していた時、入院中に書いたと思われる辞世の句を発見したのですが、父は同級生と生まれ育った土地を心から愛していたんだなと思わせる句でした。

「あとは頼んだ」と言った父の心情・・・どれ程に無念だったことだろうか・・・。

意思疎通が容易ではなくなった状態で、どうにか自分の思いを伝えようと、私に鉛筆を要求してきました。

手帳とペンを持っていたので、父にペンを持たせ、手帳を私が持ちながら書くサポートをしました。

しかし、はっきりとした文字を書くことができません。

かろうじて、「ツ」と「マ」を書くことができ、その二文字から妻を呼んでいる事が分かったので、一時帰宅していた母に電話をして、すぐ戻ってくるように伝えました。

約1時間後に母が病室に到着しましたが、その時父は寝ていました。

5時間後の深夜2時ごろ、父が目を覚まし、はっきりしない言葉でしたが母、姉、私、一人一人に感謝の言葉、謝罪の言葉を伝え始めました。

私には、大変だろうけど頼む。大学の件は許してくれ。もういいだろう。と言っていました。

大学の件とは、私が、大学進学を断念しなくてはならない状況に追い込んだ父を、今でも許すことが出来ずにいることです。

詳しくは私と父の秘密にさせて貰うが、高校卒業後、父の行動で大学進学を諦め、就職して現在に至ります。

そのことが父の頭の中にずっと引っかかっていたのでしょう。

こんな状況で謝るなんて卑怯だなって思いました。

痛がったり、何度もトイレに行こうとしたり、苦しさを訴えるとモルヒネの投与量が増やされ、せん妄状態にさせられ、呂律が回らなくなった父。

痰が絡む度、その痰を取るために細い管を喉の奥まで入れられ、苦しそうにする姿。

何でこんな状態になっているんだと思っているのか、時々、眉間にしわを寄せながら頭を抱えている姿。

呼吸が苦しくて仰向けに寝れず、すぐ起き上がり、ベッドの上で片足を抱え込みながら眠気と戦っている姿。

父の苦痛な姿が頭から離れません。

 

父は、もう一度帰宅することを望んでいましたが、看護師から、亡くなった時、迎えに来てくれる葬儀社はあるのかとか、死後、父に着せる衣装は準備してあるかとか、その望みとは反対の対応をしていました。

医師からは、1,2週間の単位ではありません。3,4日と考えてください。と言われ愕然としたのを覚えています。

最近まで、自分でトイレにも行けましたし、会話も自然に出来ましたし、突然こんな状態になるとは思ってもいませんでした。