樹下神社。 祭神は、稲田姫命。
境内に、
守山の最初の道路、
守山停車場道(現・県道156号)の完成を祝って
明治45年(1912)に建てられたという
「停車場道」の道標。
本殿の左に、安産石。
延喜元年(901)、菅原道真が大宰府に左遷された際、
信濃に落ちのびる途上にあった身重の息女(宇多天皇の皇太子・斎世親王の妃)が、「どばし河」の叢の平石のところで産気づき、里人の手厚い看護にもかかわらず亡くなった。
臨終にあたって、里人の厚情に報いるため、女人の安産を平石に強く祈願したといわれ、妊婦が平石に願をかけて、平石の下にある砂を身につければ安産は間違いなしと語り伝えられているとのこと。
・・・陰石では無かったようです(^J^)
境内の南東隅に石造常夜燈。
高さ4.14m。
中山道を往来する旅人の安全を祈願して
天保二年(1831)に、守山宿を拠点にしていた旅商人により建立されたという。
かつては木材の運搬航路であり、
今も蛍が飛翔する吉川に架かる土橋。
かつては、
幅2間、長さ20間もあったとか・・・。
ここまでが加宿(今宿)で、ここから北側が守山本宿。
粟田郡と野洲郡の境界でもあったとのこと。
この橋を渡ると直ぐに
東門院(比叡山東門院守山寺)。
江戸時代、
朝鮮通信使の宿だったとのこと。
境内に、鎌倉時代の造立と見られる層塔形式の石造五重塔、石造宝塔や石造法篋塔があり、
その傍らに『お葉つき銀杏』が混じる
守山で最大の銀杏が立っている。
一説に、「守山」の地名は、
比叡山延暦寺の東の関門として、
東門院が創建されたことに由来、
すなわち、
比叡山を守るという意味だとか・・・。
境内を出て、
さらに中山道を進むと木浜道との交差点、高札場跡に
「右中山道并美濃路 左錦織寺四十五丁こ乃者満ち」
の道標。
背面に延享元年(1744)に大津西念寺講中の銘があることから、真宗木部派本山の錦織寺への案内のため建立したものであること、あわせて琵琶湖畔の木浜港へも通じる道を示していることがわかります。
この先に道の左右に
にぎわい広場と中山道街道文化交流館。
前者に守山宿、町絵図や天満宮三十六歌仙絵の説明があり、
二階建ての商家を活用した後者の1階は、守山宿案内の冊子が置いてあり、
奥に、往時、使っていた井戸や竃、庭。
2階に大名行列のミニチュア、中山道の木版画、天満宮三十六歌仙絵などが展示されています。
交流館の並びに、
本陣跡の石碑と移設保存された井戸。
文久元年(1861)、十四代将軍・家茂に降嫁する皇女・和宮がこの本陣に宿泊したそうです。
井戸は漆喰の枠が6段に積み重ねられており、守山宿は、野洲川の旧河道がつくった自然堤防の微高地だったので用水路がなく、宿場の防火・生活用水として使われたとのこと。
道の向かいに天満宮。
ここに交流館にあった三十六歌仙絵は、
ここのモノ。
天満宮の西に源内塚(薬師堂)。
平治元年(1159)、
平治の乱で敗れた父・源義朝一行と東国に敗走する際、
馬上で居眠りをしたため一人はぐれた頼朝が守山宿にさしかかったとき、
役人の源内兵衛真弘らが襲ったのですが、逆に源内は頼朝の名刀「髭切り」により一刀両断にされてしまったとか。
村人は源内を哀れんで埋葬し、首塚をつくったとのこと。
塚の前に、
「伺い石」と呼ばれる丸い石があります。
持ち上げて軽く感じると願い事が叶うとか・・・
(「重軽石」)
うの家。
総理在任期間はわずか69日、日本政治史上4番目の短命内閣に終わった故・宇野宗佑の生家。
政界退陣後、郷土人形や郷土玩具など自ら蒐集したコレクション人形を収蔵、展示公開する「郷土人形館」の運営にあたっていたものを、守山市が買い取り、平成24年に中山道守山宿の拠点、情報発信・憩いの場としてオープンしたとのこと。
明治初期に建てられ、築140年程経っているという建物内は、宿場町の町家の様子が分かる吹き抜け、美しく力強い梁組、おくどさん、井戸などと主屋から小間の廊下でつながる証文等の文書を保管する、何重もの扉に守られた頑丈なつくりの蔵などを見学ができます。
この辺り、道に沿った民家の軒が直線に並んでおらず、一尺毎に建物の一端が道路から二尺ほど奥斜めに建てられており、敷地が一戸毎に段違いの「稲妻型屋敷割りの道」となっている。 これは、不審者が隠れていても反対側から容易に確認できるように治安維持のための町づくりなどといわれているそうです。
同様の町づくりは、今春、和歌山県海南市でも見ました。
うの家を出て直ぐの交差点に
「高野郷新善光寺道 すぐ いしべ道」と刻まれた道標があります。
この道は、中山道から東海道へ至る道でもあったようです。
慈眼寺、天台宗山門派比叡山正覚寺末寺。
本尊の秘仏・十一面観世音菩薩立像は、伝教大師・最澄が唐からの帰国途上、突然に海難に遭遇した際、観世音菩薩が現れて海上は鎮まり無事に帰国できた。
帰国後、船の折れた帆柱で十一面観世音菩薩と脇侍の持国天・多聞天像を彫り、弘仁元年(810)中山道・吉見の地に安置されたのが起源とのこと。
ここの鬼瓦は、文禄3年(1594)の銘があり、湖南地域の寺社の多くは室町~戦国時代にかけて罹災・倒壊しているため、中世の銘を持つ伝世品の鬼瓦は県内に殆んど残っておらず貴重なものとか・・・。
散策の最後は、油池跡。
今は駐車場になっていますが、かつてはこの辺り、鬱蒼とした森林と滾滾と湧き出る醴泉に恵まれた湖国でも有数の景勝地であったそうで、都賀山麓の醴泉を「こさけのいずみ」と称し、油池もその一つだったそうです。
いつもは素通りするだけの守山市街地でしたが、歩くことによって、改めて宿場町・守山の歴史を見ることが出来ました。
この日の歩数:7,432歩
「日本ブログ村」に参加しています。
↑是非、クリックお願いします。
※ クリックしていただきますと
歴史関係ブログがたくさん集まっているサイトに移ります。
※滋賀県以外の山城&古墳探訪記は、以下のブログをご覧ください。