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クーリエ・ジャポンからの転載記事です。
米軍の性欲をカネに換える「基地村」は隣国にもある 韓国で「洋公主」と呼ばれる女たち|集中連載「私が訪ねた世界の娼婦」第2回
生き抜くための「智恵」なのか
「娼婦たちから戦場を見る」という私の旅は、イラクからはじまり、いまも米軍が38度線を境に北朝鮮軍と対峙する韓国へといたった。
拙著『娼婦たちから見た戦場』(KADOKAWA)をまとめるにあたり、日本の植民地支配から朝鮮戦争まで、東西冷戦の傷跡がいまも残る朝鮮半島は、どうしても訪ねておかなければならない土地だった。
ソウル市内には、現役の売春街がいくつか残っている。そのうちのひとつで有名なのは、清涼里であろう。
別名「588」と呼ばれるその街は、ソウルの東の外れにある。その街を目当てに訪れる日本人の男も少なくない。時おり、すれ違う男から「かわいい子が多いですね」などと、不意に日本語が聞こえてくる。
ちょんの間は、ベッドと冷蔵庫とテレビが置かれているだけで、二畳ほどの部屋だった。なぜか、万国共通といってよいほど、つくりはどこも似ている。
「清涼里ははじめて? ひとり?」
日本語で、しかも日本人と顔立ちの似た娼婦と会話をしていると、ここが異国であることを忘れてしまう。
「名前はソヨンです。月曜日から火曜日、1週間に2回休むだけ、いつも夜の9時から働いてます」
年齢は31歳で、5年前からここで働いているという。
彼女は慶尚南道にある晋州の出身、両親は健在で、弟は教師をしていると言った。
「弟は真面目だから教師をしているけど、私は勉強がきらいです。だから、この仕事をしているんです」
彼女の言葉を、そのまま受け取れないと思ってしまった。
日本も変わらないが、韓国でも若者の失業率は高い。失業率は約10%に達しており、大学を出てもなかなか就職口は見つからない。
そもそも韓国経済は、GDPの7割はサムソンや現代自動車といった財閥系の会社が占めており、それ以外の中小企業との格差は大きい。大企業への就職は狭き門である。
彼女がそうかはわからないが、閉塞感が漂う社会状況のなか、他の仕事からは得られない収入を売春で得ることも、韓国社会を生き抜いていくひとつの智恵ではないかと私は思う。
ちょうど15分が過ぎた頃、「ピッピッピッ」と日本のちょんの間でも聞いたタイマーの音が響いた。
清涼里のちょんの間
性欲処理の場として政府が作った「基地村」
ここ清涼里の歴史を辿っていくと、朝鮮戦争に突き当たる。
清涼里駅はソウルから朝鮮半島東部への玄関口にあたり、兵士や物資が集積された場所であった。兵士たちを目当てにした娼婦たちもこの街に集まった。
華やかなネオンの下には、血の記憶が染みついている。
「ここから帰ることはできないって言われてね。何をやるかはわからなかったし、体の大きいアメリカ人は怖かったよ」
ソウルの北、議政府にある米軍基地・キャンプスタンレーの傍に暮らす金京順は、かつて米兵相手の慰安婦だった。
朝鮮戦争以降、東西冷戦の最前線であった朝鮮半島に米軍は駐留を続ける。結果、米軍基地周辺には、娼婦たちが集まる“村”がつくられていった。
村は「基地村」と呼ばれた。
基地村は、米兵や韓国軍兵士たちの性欲処理の場として韓国政府の主導でつくられていったのだ。
基地村で働く娼婦たちは「洋公主」と呼ばれた。彼女たちは兵士たちを慰安する一方で、朝鮮戦争後、経済発展の途上にあった韓国に貴重な外貨をもたらす存在でもあった。
韓国政府は、朴槿恵大統領の父親である朴正煕大統領の時代に、売春を禁止する「淪落防止法」を1961年に施行している。
しかし、その翌年には国内で淪落防止法が及ばない所として、米軍基地周辺など104ヵ所を指定する。それは、売春地域の制定以外の何ものでもなかった。
1964年には、米軍が基地村に落としていく外貨は韓国の外貨獲得額の10%を占めていた。そんなこともあり、基地村は韓国政府にとって外貨を生み出す打出の小槌であったのだ。
1977年には、朴正煕大統領によって、「基地村女性浄化対策文書」というものが出されている。
基地村をなくすための文書と錯覚してしまうが、まったく逆だ。
全国62ヵ所、計9935人。基地村に暮らす女性たちの性病予防、生活環境の整備、生活用水の確保など、売春に伴うリスクを減らすための文書で、韓国政府が基地村の娼婦たちを管理していたことを裏づける文書なのである。
韓国政府は基地村周辺にモンキーハウスという性病予防施設をつくり、月に1回の検診を義務づけ、もし病気が発覚したら、性病が治るまで病院で隔離したのだった。
貧困から騙されて、働いて、いまもその場所で
私が金京順に話を聞いたのは、2015年3月のことだった。
頭上を米軍のヘリコプターが爆音を轟かせて飛び、韓国の地に我が物顔で居座る米軍キャンプの影に、ひっそりと平屋の民家が密集していた。その集落に金京順は暮らしていた。
「いまじゃ住宅街になっているけれど、昔はどの家にも娼婦がいて、夕方になると家の入り口に立って、米兵たちを招き入れていたんだよ」
彼女は流暢に英語を操った。当然、米兵相手の仕事で培ったものだ。いまとなってはごく普通の民家にしか見えないが、この集落が基地村だった。
彼女は、ソウル市内にあった職業斡旋所の紹介でキャンプスタンレーに送り込まれた。いまから36年前、1970年代後半のことだった。
「ここに着いた日に、いきなりママに言われたんだよ、あんたには200万ウオンの借金があるって。何のことかと思ったら、食費や化粧品、服代やなんかで、その額だって言うんだよ。
仕事をはじめてみれば、休んだんり、遅刻をしただけで、罰金が加算されて、全然借金が減らないんだよ。ここから逃げたいと思ったけど、逃げたところで行く場所もないし、諦めるしかなかったね」
米兵たちは毎晩、彼女の体の上を通り過ぎていった。
「クラブのなかには米兵を連れ込む部屋があってね。ひと晩で20ドル、ショートで10ドルだった。生理の時も休みがなくて、酒の相手をしなくちゃならなくて、体が疲れて仕方がなかったよ。食事もキムチとライスだけ。ひどい環境だったから、ドラッグに手を出す女も多かったよ。
女たちは全部で700人ぐらいはいたんじゃないかな」
米兵たちの相手をする日々で、ひとりの黒人兵士と出会った。
「マイアミ出身の男で、私のことを気に入ってくれて、抱えていた借金をすべて払ってくれたんだよ。それで私は自由の身になって、その男と結婚したんだ。アメリカに行って暮らして子どもにも恵まれたし、アメリカには感謝の気持ちしかないね」
しかし結婚生活は長く続かなかった。
「旦那がさ、金を持って逃げたんだよ。結婚生活は失敗だったね」
彼女はさばさばとした表情で言ったのだった。
そもそも、彼女が韓国で米兵相手の娼婦を意味する洋公主とならざるをえなかったのは、家庭環境にあった。
「ソウル近郊の、代々土地持ちの農家で裕福な生活をしていたんだけど、私が12歳の時に父親がすべての金を使い果たして、どこかに蒸発しちゃったんだよ。
それから生活が厳しくなってね。学校も6年間しか通えなかったし、4日間何も食べられないこともあったよ。何とかしないといけないと思って新聞を見たら、内容は書いていなかったけど、高給と書いてあったから応募してみたんだ。そうしたら、基地村に連れてこられたんだよ」
騙されて連れて来られ、議政府、東豆川などで働き、いまは議政府にあるキャンプスタンレーの傍に暮らしている。
この集落には30人の元洋公主が暮らしているという。彼女たちは年を重ねていることもあるが、社会のなかに身寄りがない。だから、かつて体を売った場所で、いまも暮らし続けている。
ともに苦労をした仲間たちがいるこの場所は、彼女たちが孤独感を癒すことができるひとつのシェルターになっているのだった。
金さんの取材を終えると、すでに陽が暮れかかっていた。
私はキャンプスンタンレーのゲートの方向へと歩いた。うねった路地を歩いていたら、小麦色の肌をした女性たちの集団と出会った。クラブで働くフィリピン人女性たちだった。
1990年代に入って、洋公主を管理していた韓国政府に批判の矢が飛びはじめた。また、韓国経済が上向くことによって、働く韓国人女性が減ったことから、米兵たちの相手は、フィリピンやロシアの女性たちが担っていくことになった。
日本からひと足遅れて、じゃぱゆきさんならぬ、韓ゆきさんが現れたのである。
ロシア人女性は、2003年に売春を強要された事件が発覚して以降はいなくなり、韓国で働いている外国人女性はフィリピン人が主である。
かつてのように、あけっぴろげな売春はおこわれておらず、おこなわれているとしても、個人的な繋がりによるものだという。
いずれにしろ、防人の米兵を癒す女の役割は、外国人女性に受け継がれている。
米兵たちがこの地に存在する限り、彼女たちの需要が絶えることはないだろう。
慰安婦問題で挺対協などの、団体は現在の基地村に対して、何を思って
活動しているんでしょうね。
現代の時代においても、貧困の為に騙されたり、自分から売春婦になる
女性がいるし、海外にも進出しています、もちろん日本にもです。
この事から考えても、併合時代の朝鮮も日本も、農村部は非常に貧しく
慰安婦になった経緯が分かると思います。
なのにそれを無視して、嘘八百で強制的とか性奴隷とかの、捏造で日本
を貶めようなんて、韓国と言う国の政府・挺対協・民間反日団体・韓国
野党は、足元の韓国国内をどう見ているでしょうね。
しかも少し前にアメリカで逮捕された、売春婦はどう見ても60歳台で
写真を見て、思わず笑ってしまいました。
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