昭和19年、東海道の宿場町としての賑わいを、すっかりなくしていたこの町。鈴鹿の山々に囲まれた、小さな集落であったため、空襲の標的にもなりにくく、人々は、ひっそりと暮らしていた。
深川屋もその年、戦争の激化とともに、原料が手に入らなくなり、300余年作り続けてきた「関の戸」の一時生産停止を余儀なくされ、先が見えない日々を過ごしていた。
父はまだ8歳。工場にある、空の小豆樽の中に入って遊んでああた記憶があるという。
3へ続く
昭和19年、東海道の宿場町としての賑わいを、すっかりなくしていたこの町。鈴鹿の山々に囲まれた、小さな集落であったため、空襲の標的にもなりにくく、人々は、ひっそりと暮らしていた。
深川屋もその年、戦争の激化とともに、原料が手に入らなくなり、300余年作り続けてきた「関の戸」の一時生産停止を余儀なくされ、先が見えない日々を過ごしていた。
父はまだ8歳。工場にある、空の小豆樽の中に入って遊んでああた記憶があるという。
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