akiのdiary

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映画のレビューや舞台の感想、日々の出来事などダラダラ書いてます。

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前に見たもののDVDレビューを書いてないのに、今日見たもののレビューを書くというのもどうかと思うんですが、印象が強かったのでf^_^;
今更ですが、『エミリー・ローズ』を見ました。怖いシーンに抵抗があって見なかったんですが、ホラーではないらしいので借りてみました。詳細はコチラ→エミリー・ローズ - goo 映画


確かに怖いんですが、信仰の問題(悪魔の存在の是非)を考えさせられる作品でした。
エミリーは果たして悪魔憑きだったのか精神疾患だったのか。常識的に考えれば精神疾患に落ち着くところでしょう。実際モデルとなったクリンゲンベルク事件のアンネリーゼはてんかんを病んでいたそうです。
作中、保護責任者遺棄致死が問われているわけですが、実際はそうなったものの、本当は家族も悪魔払いを行った神父も彼女を必死の思いで助けようとし、一心に神の救いを求めた。けれどそれは現代のパラダイムの中では非科学的な行いで罪としてとらえられる行為だったわけで。
神父の抑制した語りとエミリーの悲劇を悼む姿から、彼が本当にエミリーを救おうとしていたのが伝わってきます。それが非科学的であろうと、エミリーも神父も家族もそれが悪魔の仕業と信じ、そしてそれと戦っていたのだということがわかります。
キリスト教を信仰していない者が理解するのはとても難しいことではありますが、悪魔とはそもそも何なんでしょうか。
神に敵対するもの、人間を堕落させるもの-。京極夏彦の『絡新婦の理』で京極堂は自分が悪魔であるという少女にこう言います。
「君は悪魔悪魔と云うが、それは悪魔(デヴィル)なのか?魔王(サタン)なのか?それとも悪鬼(デーモン)か?冥王(ルシファー)かな?それらは皆違うものだ。起源が違う役割が違う属性が違う。尤も現在では完全に混同されてしまっているがね。」
この後に彼はキリスト教における悪魔について語っていますが、かなりわかりやすくかみ砕いてくれていて面白いです。
ヨブ記にもあるように、サタンとは神の試練を与える者であり、本来は神の僕であった者。それが一神教であるキリスト教が異教の世界にも広がる過程において他宗教の神を否定し悪魔とされていくわけですが、一神教においては神は全ての創造主でなければならず、悪魔ですらも神の創造物であり神に敵対しながらも神を超越することのできない存在。けれど敵対する存在が軟弱であるならば、それを映して輝く神もまた弱体化してしまう、そこで悪魔を強大な力を持つ神の敵対者と想定すれば神もまた偉大な存在となるが、その悪魔も神が造ったのだから、強大な悪の根源もまた神だ、という二律背反する葛藤をキリスト教は抱えている、というのがかいつまんだ京極堂の論旨です。
なんだか論理学の講義を思い出してしまいますがf^_^;クレタ人は嘘つきだとクレタ人が言ったぐらいぐるぐるしそうな話ですよね。
そういった部分をえいやっと除けてしまって、本質の信仰心を試す者としての悪魔、神の存在をしらしめる為の悪魔と、とらえた上での結論をエミリーは選択し、神父に手紙を書くのですが…苛酷かつ壮絶な結論だと思います。あくまで彼女は悪魔と戦い、善、信仰の勝利を信じて死んでいったのだと思います。
不可知論者だと言っていた女性弁護士の最終弁論が印象的です。悪魔の存在は本当に否定しきれるものなのか、信仰の問題を果たして法で裁き得るものなのか。それを静かに問う彼女の姿が心うちます。
迷信的かもしれない。前近代的かもしれない。けれど神を信じ信仰する者にとって神の創造物である悪魔の存在を否定することは神をも否定することであり、悪魔は厳然として存在するのです。そして悪魔に与えられる苦しみは神の試練であり、それは戦うべきものであるのでしょう。その思いを否定することはたとえそれが相手を救わんする行為であったとしても、その人の信仰を冒涜することであり、そんな権利は誰も持たないのではないでしょうか。そんなことを考えさせられた映画でした。
さてさてほったらかしにしているDVDレビューです。
吉田喜重監督、『告白的女優論』。
反映画の旗手、吉田監督の作品は粗筋を説明するのがとっても難しいので、こちら告白的女優論(1971) - goo 映画
をご覧下さいf^_^;
主演は岡田茉莉子、浅丘ルリ子、有馬稲子という錚々たる顔ぶれです。
更に脇に三國連太郎、赤座美代子、大地喜和子、月丘夢路、峰岸徹、原田芳雄、細川俊之などなどものすごい面子がそろってます。
とにかく主演のお3方がものすごく綺麗!女優オーラが出まくってます。
女優が女優を演じているんだから当たり前かもしれませんが、最近の女優さんには出せない風格だと思います。ただ立っているだけで、座っているだけで、「あたくし、女優ですのよ」と主張しているかのような存在感(←どんなんだw)
個人的には有馬稲子がかっこよくてツボでした。
話としては以前見た『エロス+虐殺』よりわかりやすい感じですね。フロイト的にそれぞれの“性”を語らせて最終的には“女優”というアイデンティティにたどりつく、っといったような…。
彼女達の根底に“女優”というアイデンティティを見出だせるのはやはり彼女達が女優らしい女優だからだと思います。娯楽性に欠けるので、吉田作品がリメイクされることはないでしょうが、これだけ“女優”としての存在感と説得力を持つ面子が今の女優さんを見渡してもなかなかいないので(←何様)今作るのは不可能な作品じゃないでしょうか。
特に有馬稲子演じる伊作万紀子の恋人の台詞、「君にとっては死ぬことすら演技なんだ。君が女優である以上、自殺することはできない。」という言葉に説得力を持たせることのできる女優がどれだけいることか、と思わされます。
仕掛け、というか演出的には舞台にしても面白そうな感じですが、テーマとしてはいささか古臭く感じるかもしれません。まだ性と思想を結び付けて語ることのできた70年代らしい作品かなぁ、とも思います。
それでも女優達が個人、私人としての自分をさらけ出し、葛藤する姿はすごく印象的です。そして本来核であるべき個としての自分の向こうに女優である自分を発見する。その時のそれぞれの演技がまた秀逸です。
3人が並んで歩き始めるラストシーンはなかなかに印象的だと思うのですが…。
楽しめる、という映画ではありませんが面白い映画だと思います。
本日は『サッドヴァケイション』。『Helpless』、『EUREKA』に続く青山真治監督の“北九州サーガ”の第三作です。
中国人の密航を手助けした健次(浅野忠信)は、中国人マフィアから逃げるため運転代行に転職しています。ある日、泥酔客、間宮(中村嘉葎雄)を送って行った先は、若戸大橋を真近に見上げる小さな運送会社・間宮運送。そこで健次はかつて自分を捨てていった母・千代子(石田えり)を目にする。借金取りに追われている後藤(オダギリジョー)かつてのバスジャック事件被害者の梢(宮崎あおい)ら、様々な過去を持つ流れ者たちで構成される間宮運送で働き始めた健次。千代子への復讐の機会を窺いながら一緒に暮らす健次ですが、日増しに大きくなる千代子の母性に翻弄され飲み込まれていきます。。
『Helpless』、『EUREKA』を見ていなくても一応わかるような作りにはなっていますが、この前2作を見ていなかったらあんまり面白くないかもです。
『Helpless』の主人公、健次のその後の物語なので、『EUREKA』は必ずしも見なくても大丈夫ですが、見た方が楽しめるシーンがあるので、その辺は微妙ですね~。なんせ『EUREKA』、長いですし…。
『Helpless』は壊れていく人生を、『EUREKA』はアクシデントによってどこか人生が狂ってしまった人達の心の再生を、『サッドヴァケイション』は人生にもがく者達を強烈な強さ(母性)が搦め捕っていく様を描いていると私は思ってるのですがどうでしょう?
ちなみに中上健次の紀州サーガのオマージュでもあるので、3部作読んでから3本を見てもまた面白いですよ~。
で、本題の今作『サッドヴァケイション』。
けぶるような薄い紗のかかったような画面、演技っぽくないトーンで話す登場人物達。浅野忠信がやはり素晴らしいですね~。淡々と演じながら鬱屈した感情を爆発させる彼の暴力がなぜか哀しい。恋人、冴子(板谷由夏)や義理の妹、ユリ(辻香緒里)、中国マフィアの手から奪ったアチュン(畔上真次)、守るべき者達にむける優しい眼差しと対象的に、千代子に対して向けられる暗く苛立ちと怒りをたぎらせた眼が印象的です。
そしてその眼を受け止め、どこか飄々としながらも自分のエゴを通そうとする千代子もまた印象的。ここで描かれる母性は美しくもなければ優しくもありません。ただただしたたかでたくましい女、そして母。間宮との息子、勇介(高良健吾)が気に入らなかったり思うようにならなければすぐに健次に頼りにしている、間宮の後は健次に継いでほしいと言う自分勝手さ。健次を傍に置くために彼が大切にしている者を自分の側に取り込み彼を搦め捕る狡さ。どうしようもなく勝手でどうしようもなく周りを傷つける彼女。けれど結局は彼女のたくましさとしたたかさが全てを捕らえてその内に取り込まれていくやるせなさ。
彼女がこの哀しい物語の原因でありながら「男の人達は勝手にしたらええんよ」と言うエグさ、健次がそれを望んでいるはずもないのに「みぃんなあんたを待っとるけんね」と言う残酷さ。彼女を傷つけようと、復讐しようとしてきた健次の行動はいとも簡単に彼女に飲み込まれて無意味なものにされてしまいます。
千代子だってそれまでに傷ついたり哀しんだり様々なことがあったには違いありません。けれど彼女だけはそれらのあったに違いない様々なことに捕われずにエゴイスティックなほどに前を向き生きています。それはもしかしたら過去に捕われている者からすれば苛立たしく感じるものでありながら同時に癒しでもあるのかもしれません。
およそ母親らしくない千代子ではありますが、それはごくごく当たり前の目線から見た場合であり、紛れも無くこの映画は強烈な母親の物語になっています。
誰もが傷や歪みを抱え、けして明るい物語でもなくストレートな希望が持てる結末でもありません。それなのになぜか惹きつけられます。
人は完璧なものよりもどこか欠けていたり傷があったりするものの方が愛着を感じたり惹かれたりすることがありますが、それに似た感覚かもしれません。
誰もが心に傷を持ち、そして多かれ少なかれそこに捕われないようにもがいています。それは哀しくて少し滑稽で。それでいてその姿がそれぞれに不思議に魅力的で。
そしてそれらを軽々と超越し、奇妙な揺るぎなさと強さを持つ母になぜか救われる気がしてしまいます。
一応は完結編となるこの作品ですが、彼らの傷はまだそこにあり続けるし、物語も終わってはいません。この先の彼らを見たいような気がしますが、終わっていないからこそ魅力的な物語なのかもしれません。