武田信玄


風林火山
」の軍旗を用い 甲斐の虎 無敵と呼ばれた最強騎馬軍団を率い、また越後(新潟)上杉謙信の良き好敵手とし 戦国の乱世を代表する 今の山梨県にある 甲府
躑躅ヶ崎館
を本拠とした城下町(武田城下町)を開府し 家臣団組織が整備され戦国大名
として 足利幕府を再建して 征夷大将軍となり全国を天下統一するという宿命を 自ら不動明王(戦いの神様)と化して 孫子の兵法書の愛読者でもあり 合戦の状況次第で千変万化する戦闘隊形 


信玄の自由自在の戦法に敵は次第に翻弄されていく


甲州軍団の基盤となる 団結力と統制力 それに卓越した 統帥能力が結びついた時に 無敵のパワーを発揮するのであった


大名なのに 城を構えないで 館の屋敷(衣食住のするお家)に住み 人は城、人は石垣、人は堀 城を構えても 自分の身を守るだけの事 甲斐一国を城とみなす 独特のスケール観の天才軍人


金鉱山の産出を紙幣として流通し 全て 部下の為に土地や金を 合戦で活躍した者に褒美としてたので民、武将、兵士一丸となって 信玄公のお役にたちたいと 士気も鼓舞して 合戦では全戦全勝でした



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馬場信春(四天王の一人)


一国一城の主の器 国の太守になっても人後におちぬ器量人


信玄の弟、信繁が川中島の合戦で亡くなってからは 副大将を務めて 戦歴40年 参加した合戦での一度の擦り傷さえも負わなかったという 戦上手の武将


信玄の押しも押されぬ重臣の一人として諸将はもとより家中一同 雑兵に至るまで 全幅の信頼を寄せられる


今川家討伐戦の時は 宝物を略奪するのは 「貪欲の武将と後世に物笑の種をつくるだけだと」一切 略奪禁止令を部下に下す いかにも「武骨一辺倒」の信春らしい逸話がある


信玄の子 勝頼時代による長篠の戦いの 作戦会議では 織田方の馬防柵に騎馬隊を正面からの攻撃を避難し ここは軍を引いて 信州に引き寄せて 一気に追撃殲滅の作戦を提示 


しかし 主君である 勝頼の提案は 織田・徳川連合軍などたいしたことがないと 誤算


信春は武田の運命が これまでと天を仰ぎ ここに悲壮な決意をする


織田軍は武田軍の 作戦戦法を察知して 火縄銃で応戦 しかも 三列に並んで 玉込係り 渡す係り 発射係りの分担して 三段銃構えの連射乱れ打ち 戦国最強の騎馬軍団が あっけなく殲滅


信春も先陣切って突撃して 火縄に打ち抜かれ ちってしまったのでした


作戦の進言を して臨機応変の合戦にはならなく織田方の策にハマり 武田が滅亡した結果になりました  

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内藤昌豊(四天王の一人)


武略に優れ多くの味方を勝利に導く軍功 多くの功名の輝く歴戦の勇者となっても「合戦は大将の軍配に従ってこそ勝利を得るもの いたずらに個人の手柄にこだわることなど 小さなことよ」と個人の名誉 功名よりも全軍的視野で物事を捉え 集団統率に意を尽くして 信玄も「この将にして この臣あり」にふさわしい 逸材 決して ゴビったり ごまかしたり してやったり主張などない 沈着冷静な武将であった


全ての合戦に参戦して 副将格として 力量を高く評価され 信玄の昌豊に対する並々ならぬ信頼と期待に応える活躍ぶりを示しました


現在 群馬県 西上野の箕輪城に長野業政の子の業盛を攻め落とし 昌豊を城主に任命して関東の備えを任され 上杉軍(越後)・北条軍(武蔵)からの進軍を押さえました


長篠の戦で 信州から出陣は避けて 相手の食料が無くなるのを待って士気の低下をねらう 持久戦を提示やはり この提案も 却下され 銃撃の嵐の中へ飛び込んで 討ち死にしました

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高坂昌信(四天王の一人)


信玄の下で 小姓組から侍隊将まで スピード出世をした エリート武将 作戦・用兵は軍団随一




川中島の戦いでは 海津の城主を任され 上杉謙信の侵略を防ぐ 決戦最前基地の役目をしてました


常に 北越の動きを見張り 戦陣においては 敵の情勢を機敏に探り 状況などから 合戦の作戦を提示して 直接進言する立場でもあった


合戦では 先鋒(合戦の勝負を任される)になって 沈着に行動し確実な戦果をあげて 勝利に大きく貢献した その方法として あらゆる情報収集を行い 決して無駄押しせず また 無理な戦いもせず 知略にすぐれ何事も慎重な 智将であった


川中島の戦い(4回戦目)では 別動隊の大将で 上杉謙信の奇襲攻撃を敢行しましたが 謙信の察知で回避され 急遽 信玄の本陣に救援に戻りましたが 武田信繁(弟)、山本勘介(軍師)が無残に 討たれましたが 昌信の瞬時の反転して 反撃が遅かったら 信玄も危うしだったことでしょう


信玄の提案を裁可するときは ただ一人反対の意見を発言し 状況判断は軍事行動するうえで 的確な自軍の判断分析をし 先見の眼力能力は信玄も 昌信の言葉に従ったようです


勝頼が 長篠の戦いの敗北で戻って帰国の時 8000の兵士と全ての武器と食料をもって 出迎え着替えさせ 敗軍の見苦しさを感じさせないように 配慮した 主君 思いの武将


後世は 昌信の箸と伝われてる「甲陽軍艦」は 軍学理論 兵制 軍団の編成と機構 兵器の説明 信玄にまつわる書で 徳川時代の 軍事教科書になって 広く愛読された

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山懸昌景(四天王の一人)


敵を恐れぬ猛将の将 赴くところ敵なし 城攻め、野戦での駆け引き 采配ぶりは信玄も感嘆するほどの実力があり 短期間で城を落とすのは右にでる者がいないほど 甲冑が「赤備え」(赤で一色)の軍団を対陣する敵の方は 赤鬼と恐れ震え上がった 勇敢武将 (真田幸村と井伊直政は「赤備え」甲冑軍団を真似した編成隊にして 勇猛武人をアピールした)


徳川家康征伐の三方ヶ原の戦で 5000の軍勢を引き連れて 先鋒隊をつとめ 徳川本陣まで迫った


そして 信玄別動隊本陣が 浜松城を揺動作戦で攻略する 動きがあり 家康も 浜松が落とされれば降参か武田に従うようになるので 退陣してしまう その時を待ってたかの如く 昌景が本陣の後ろを突き 家康は死力を尽くして抗戦するが 追撃され 一時は自決覚悟を決めたほどでした


命からがら浜松に戻った 家康は袴がびしょり濡れて弱り果てたのでした 脳裏に猛将昌景の印象が強烈に焼き付いたことでしょう


この 三方ヶ原は 有名な関ヶ原の戦いの揺動や心理の駆け引き 誘き寄せ作戦は模範になって勝利して成功してます


長篠の合戦では 状況の不利を把握し いったん兵を引く事を進言し 勝頼あての書状はことごとく無視され 勝頼の号令ともに 進撃し猛進の武将らしく 山懸隊の先頭に立ち 弾を受けても 馬から落ちず絶命した 

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