真理よりも経験則を
歳をとったからだろうか、それとも対人関係の仕事をするようになったからだろうか、朝の通勤の途中で、今日はどんな日かな?と考えるようになった。対人関係の仕事ではめぐり合わせが悪いと、大変な目に遭うことがあるからである。
自分のコンディションを見つめるのではないのか、と思うかもしれないがそうではない。
昔、仕事が大変だったときのビデオを見ていると、頭の中は千々に乱れていても、わりと普通に話している自分の姿が何回となく確認できたからである。自分が思っているほど周囲からはそんな風に見えない。
もうひとつ、ある朝、妙な胸騒ぎがして同僚の方に、「今日は難しい話が多いと思いますよ。」と内心半信半疑で声をかけたら、その方から「なんか、そのとおりだね。」と午後ぐらいになって返答があったからである。
今までは興味関心が自分の内に向いていたこともあって、これは新しい発見だった。また、どうしても理性的に順序だてて考えるという習慣があったので、混沌としたよくわからないものは無意識に無視してきたと思う。目の前に広がっている景色が目に入らなかったことが多かったということである。
こんなことから、できるだけ外の世界を見るように意識している。そうすることで、見ればわかるじゃないか、細かいことはわからないが大方こんなところかな、と思ってそれ以上考え込まないようになった。こういう習慣は自分のような考えすぎる人間には、時間を有意義に使ったり、精神的な健康を保つ意味ではとても大事なことではないかと思う。
もちろん、そうしていても今までの考えすぎる傾向は残る。だが、そういうことを知っていれば、時折振り返って、行き過ぎを正すことができる。知っているということがポイントで、知っていてやる、ことと、知らないでやる、ことには大きな差がある。
月に宇宙船が到達したあたりからだろうか、科学万能という風潮が生まれ、なんでも科学的に証明することが求められてきた。日本のようなものづくり大国ではよくマッチして、自身もその考えをもってやってきたし、今でも第一線で活躍している方にはそうあってほしいと思うが、当てはまらないものもあるのでは、と思う柔軟性は持っていてほしい。
真理よりも経験則を、というのはそういうところである。科学的にわかるまでには時間がかかる。わかっても当然のこととして片付けられてしまったのではなんとも寂しい。多くの先人たちが日々の経験の中で発見してきたことは、たとえ非科学的と見えることはあっても、説明がつかないことであっても、一度は考えてみたり、観察したりしてみることが必要ではないだろうか。非科学的の一言で切って捨てるのははなはだ乱暴な話で、その教えを守ることで、将来降りかかるかもしれない火の粉を消し止めておくことができるかもしれない。そんな知恵をさがしてみるのも面白いことだと思っている。
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