余り良い思い出がない私の小中学生の頃!!!
両親が離婚母子家庭が続いていたのも原因で、とにかくあちらこちらに移り住んだ。勿論小学校は3校
中学は2校。転校する度に教科書が変わり分けが解らなくなる。

勿論勉強は全然駄目、、、、馬鹿のレッテルを大きく貼られる。

勉強の出来ない子はいじめの対象物、生活保護が加わるともっと大変!!!!!!!
現実、自宅で勉強をまともに出来る様な家庭環境ではなかったし。

夕方になると母は化粧を始め、着物に着替えてお店の出勤。水商売で私たちを育ててくれた。
温かい家庭の団らんとかまるで私には無用の物でしかなかった。妹と私だけの夜、、、、、
夜中に酔っぱらった母が帰る迄ひたすら待っていた。
母に何かあったらどうしようとかもちろんノンビリなんかなかった。

お陰で、今でも暖かい家庭と言う物にあこがれ、執着してしまうのも当たり前なのかも知れない。


しかし同級生からのいじめは私は余り受けた事がなかったが、担任の先生が筆頭になってひどい差別と、いじめを沢山受けた。

男性の担任の先生からは全く以て0本当に良くしてくれた事しか記憶にない。!!!!女性の担任の先生には本当に此の年になっても忘れる事の出来ない思い出が残っている。

一番悲しかったのは給食費を払う事ができなくて後ろの黒板にでかでかと私の名前が消えないで残る事。
決して忘れて給食費を持って来ない訳ではない。家にお金がないので持って来れない。毎朝投稿するのも辛かった。しかし言い訳は全く通らない!!!!!勿論先生だって当然知っている訳ね。
給食もただ食いしている様な気分で食べていたのを思い出す。
でもそんな事承知で皆の前で恥をかかされるのよね。。。。。。しかし子供には何の抵抗すら出来なかった。

学校で時々身体障害者の絵はがきなど売られた。私は絵が大好きだったし皆と同じ扱いをしてもらいたかったが、現実問題私は先生の槍玉に挙がる。

皆の前に立たされて貴方は生活保護を受けているから特別なのだから此のはがきを買う事が出来ないと皆の前で笑い者にされた。
今でも心の奥に深い傷が残っている、福島県いわき市平第三小学校、今でも忘れる事のない先生の名前
岩波先生だった。

そして川崎へ転校。久本小学校では天野先生と言う男性の担任の先生の時は本当に父親の様な気がした物だが、その後に担任が変わり散々痛い目にあった。やっぱり女性の先生だった。

中学の時もやはり同じ仕打ちを受けていたのは女性の先生。

水商売の母を持つ事がこんなに恥なのかとさえ思った中学時代。何で水商売がいけないのかと思っていたし、母の苦労をずーっと見て来たから。

受験の時期になり勉強の良く出来る同級生の事仲良くしていると、三者会談で先生が私の同級生のお母さんに、あんな馬鹿の子と最近仲良くしているから貴方の娘さんの成績が最近落ちて来ているとまで言っていた先生。勿論綿所の耳に後から入る。

馬鹿な子と仲良くすると馬鹿が移るとは知らなかったわね。

でも其の時もやっぱり悲しかったかな。。。。。。。。。。。

昔は先生は神様恐い存在、何でも先生の言う事は正しいと思っていた。
何でも我慢して押しつぶされそうな子供時代、学校が無くなれば良いとさえ思った私。
しかし悪い事もいつまでも続かなかった。

母の突然の再婚で、あきらめかけていた高校進学も何とかセーフ、しかし良い高校に入るだけの学力0!!!
誰でも入れると言う高校に進学した。’
それを皮切りに思い切り過去の自分から抜け出そうと思った。そして誰も私の事を知らない環境のお陰で
大きく変わることが出来た。

担任にも恵まれ、同級生もドングリの背比べ、落ちこぼれの集まる学校だったが、今の私が此処迄頑張って来れたのも此の学校のお陰かも知れない。

現在では学校の名前も変わっていた。
木更津中央高校だったがこの間調べたら木更津総合高校に変わっていてびっくり。
制服も学校もいつの間にかユニークなコースが沢山あった。
時代も変わったのね。

子供の頃に体験した事を今でもこうやって恨みに思うくらいの体験して来た私でしたが。

馬鹿はバカなりにこうやってガンバッ来られたと思うそれも外国で。。。。。。。。