朝起きると雨の香りがした。
ラナイのドアは閉まっていたのに、ベッドの中で雨の香りを感じた。
雨の香りなんて本当はしていないのかもしれない。
感覚は視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚で覚えるが、私の場合、すべて同じく感じるから。
耳で聞いたものや目で見たものが、香りとなって私の感覚にとけこむことが時々ある。
だから、雨の香りを感じたのは、もしかしたら、気のせいくらいになんとなく「シャー」と微かに聞こえる音のせいかもしれない。
「あの音は車のタイヤが水をはじく音なのかも」と思い、目を開けると薄暗い部屋の中にほんの少しだけ開いたカーテンの隙間から薄く日が入ってきている。
朝の7時くらいかしら、とからだをずらして時計を見ようとしたら、隣には確かにあなたがこちらに背中を向けて寝ていた。
「確かに」とは、夢ではなくこれは現実として受け止めているから、「確かに」なのだ。
昨日の朝は、「確かに」と確認する以前に、見慣れない大きなからだが自分の寝ている隣に存在するのが驚きだった。
見慣れない光景が自分の目に入っても、それはとても安心する心地よいものだった。
一人寝をするようになってから何年たつのだろう、と昨日の朝は起きるなり指で数えた。
夫が亡くなってから4年。
「でもその1年前から寝室を別にしていたので、5年だわ」
と、心の中でつぶやきながら、あなたの寝ている姿に見入っていた。
今朝は、驚きはなかったものの、熟睡して迎えた朝ゆえにまだ夢の中に自分がいるような気がしてならなかった。
だから、あなたが隣にいる事実を夢ではなく現実と受け止めようとする自分がいた。
もう一度ベッドの中でからだをずらして、自分が現実にいるということを確認した。
シーツから出ていた右腕が冷えていて、少し肌寒く思った。
私が起きたのに気づいたのか、あなたは何も言葉を発せずに私に腕を差し出した。
「ここにおいで」というサインだ。
私は自分の頭がぴったりはまるあなたの脇の下に頭を置いた。
うっかり腕の上に置くとしばらくして「下にずれてほしい」と言われてしまうので、いつもここが定位置だ。
「雨かしら」
「うん、タイヤが雨をはじく音がする」
「私もその音を感じたわ。じゃあ、やっぱり雨なのね。あなたの勘はするどいから」
「いや、君の勘の方がするどいよ。じゃあ雨なんだ」
「雨の香りも感じたの」
「それなら、なおさら君の言うことは正しい」
「それは、あなたの言うことも正しいってことだわ」
「そうだね」
あなたは笑った。
どちらかがラナイのドアにかかっているカーテンを開ければ正解か不正解かわかるのだが、二人ともベッドから動こうとしなかった。
「こういう推理が好きだわ。そしてその推理の元に計画を立てるのが好き。意味のないことをするのが私の得意とすることなのかも」
「君らしい」
「じゃあ、もしも雨だったら今日一日どうやって過ごしましょうか」
「どうやって過ごそうか」
「午後から晴れ間が出たら、パパイヤとレモンを買って海に行きましょう。でも、これだけ肌寒いと、晴れ間が出ても海に入るのは少し寒いかもしれないわ」
「なるようになるさ。とにかくまずは、朝食をとりに行こう。君がパパイヤと言ったから新鮮なフルーツが食べたくなった」
「新鮮なフルーツ?おいしそうだわ。今、喉がかわいているけれど、水を飲むよりもパイナップルやオレンジが食べたくなったわ」
「フルーツはからだにいい。実は水分をとるなら水よりもフルーツからがいいんだ」
「そうね。フルーツはビタミンと水分が豊富だもの」
「フルーツをメインディッシュにしよう。ポーチドエッグやベーコンはおまけだ。大きなお皿に色とりどりのフルーツを盛ってテーブルの真ん中にどんと置く」
「ヨーグルトをたっぷりかけて?」
「ああ。ヨーグルトをかけるとたくさん食べられるから、それが僕のフルーツの食べ方だ。
でもここのブレックファストブッフェのヨーグルトは日本製のものよりはるかに甘い。フルーツフレーバーなのがちょっと残念だな」
「ヨーグルトのカップの下の方に入っている濃縮されたフルーツのリキッドのようなものを混ぜなければいいわ」
「そうか。では今日はそうしよう」
私たちはたわいない会話をしながらも、まだ雨が降っているのかどうか確かめずにいた。
数秒の沈黙の後、あなたは、私の顎に手をかけて私の唇に自分の唇を一瞬つけた。
マークをつけるように。
「朝の挨拶をまだしていなかった」
「はい」
「おはよう、奈津美」
「おはようございます、信哉さん。私からも朝の挨拶をさせて」
と私は言うと、マークをつけるというより、愛しいものを確認するかのように自分の唇をあなたの唇に重ねた。
愛しい気持ちが通じたのか、あなたは、ベッドに横になりながら私のからだを引き寄せて、私からの朝の挨拶を受け入れた。
朝の挨拶が終わると、私はまた定位置に頭を戻し、あなたの温かさを感じつつ、あなたと同じベッドで目覚めた朝の喜びの余韻を感じていた。
「あと一回だけ」
「なに?朝の挨拶の続きかい?」
「違うの」
と言って、私は少し躊躇しながら続けた。
「あと一回だけだわ、あなたと朝、こうして一緒に目覚められるのは」
「そうだね」
あなたは、へたに私に期待させるようなことは決して言わない。
たとえば、今の会話であれば「そんなことないよ。またこうして一緒に旅に出ればいい」とは言わない。
適当なことを言う人は好きじゃないから、そんなまっすぐなあなたが私は好きだ。
「目をつぶったらすぐにまた寝られそうだ」
あなたは外の様子を見ようとする気配すらなく、目を閉じて言った。
そして、私の肩を撫でながら
「今、何時?」と聞いた。
「時計を見ようとして、ついあなたの寝姿に見入ってしまったからまだ何時だかわからないわ」
と私は笑った。
あなたはどうせ起きる気なんてないだろうから、時計を見るためにあなたの腕をふりほどくのがもったいないと思った。
それなので「たぶん7時15分くらいだと思う」と答えた。
「雨なら今日はアクティブに動けないね」
とあなたは言った。
でも、雨が降っていてもそんなことは一向に気にしていない感じだった。
雨が降っていようが空が晴れていようが、あなたは今は目を閉じて寝たいはずだ。
私ももちろん、外の様子を見るつもりはない。
2人ともジェットラグの影響で眠い。
短いバカンスを一緒に過ごそうと思ってここに来た。
そのショートタイムを有効に使うのなら、ベッドから飛び起きて、天気をチェックして、その日のスケジュールをすぐさま立てるべきなのかもしれない。
でも私もあなたもこうして同じシーツの中でからだを合わせて寝ていることに居心地のよさを感じていた。
だから、天気なんてどうでもよいことだったのかもしれない。
「とりあえず、朝食に行こうと決めたのだから、9時には起きよう」
「そうね。フルーツとヨーグルトを食べないと」
そう言うと、2人はまた夢の中に戻るために目を閉じた。
あなたの腕の中で私は「雨なのかしら、晴れなのかしら、曇りなのかしら」と思いながら、現実と夢の狭間であなたの香りを心地よく感じていた。
THE END Written by 鈴乃@Akeming
