マンションに着いて、エレベーターを待つ間、首が少し汗ばんでいることに気づいた。
あの坂を上るには、少し汗ばむ季節になったのだ。
また夏がやってくる。
雨が続いた東京だったが、ここ数日は、初夏に近い気温だった。
駅からこのマンションにたどり着くまでに、私は坂を3本歩く。
下って、上って、そして、上る。
このあたりは坂が多い。
坂が多い街ってなんだか趣があっていいと思う。
あるとき、ふと、坂ってどうしてできるのかしら、と疑問に思ったことがあった。
ただの土地の傾斜なのだろうと思っていたら、ある本にこんなことが書いてあった。
「高台の間には谷がある。
谷と高台の間には坂ができるから、高台の多いところには坂が多い」
私の住む麻布にはいくつもの高台がある。
だから、麻布という地にはたくさんの美しい坂道があるのだろう。
ヒールの高い靴だと下り坂は歩きづらい。
上り坂で汗ばむ程度ならば、いつもヒールの高い靴を履いている私は、下るよりも上る方が楽かもしれない。
太陽がぎらつく真夏の上り坂はきついけれど、今日のような陽気であれば、汗ばむくらいの方がからだには心地よい。
片手で髪を上げ、片手でうなじに風を送りながらエレベーターを待つ。
だいぶ上の階に止まっていたエレベーターがやっと一階に到着した。
誰も乗っていない。
私は一人で乗り込み、ドアを閉めた。
上昇するエレベーターの扉のガラスにうっすら自分の顔が映っている。
私はガラスに向かってにっこり笑った。
自分のつくり笑顔を見ながら、昨日、このエレベーターにあなたと乗ったことを思い出した。
そういえば、昨日は、このガラスには私とあなたが映っていた。
あなたは背が高いから、顔は映らない。
下りのエレベーターで、あなたと言葉を交わすことなく、私はガラスに映るあなたの気配をぼんやりと見ていたっけ。
昨日、あなたと思いがけなくして会えた。
夏めく陽気の午後、明治通りと駒沢通りの交差点近くのチャイニーズレストランであなたと少し遅い昼食をとった。
実は、前夜まで、体調を崩し、外出できなかった私だった。
私は、悪質なウィルスに捕まってしまい、こんな時期にめずらしく風邪の症状がひどく、数日間、寝室で寝込んでいたのだ。
友人から電話をもらうたびに
「こんな時期にめずらしいね」
と気の毒がられた。
あなたからは、タイミングよく連絡がこなかった。
あなたから連絡がきても、会えない状況だったので、連絡が来ないことは有難かった。
たぶん、忙しいんだわ、と思い、私はウィルスをやっつけることに徹した。
そして、だいぶよくなったかな、とほっとした朝、これまたタイミングよくあなたからメールが届いた。
「今日は気持ちがいいね。お昼に迎えに行くから、外に出ておいで」
散歩に出ようかと思っていたところだったので、あなたの誘いを断るわけがない。
ただ、ひとつ、心配だったのが、このウィルスをあなたに移しちゃったらどうしようということ。
でも、あなたは
「昨夜、接待で遅かったけれど、全然疲れていないし、僕は強いから大丈夫」
という、たのもしい返事。
「こういうのをタイミングがいいって言うんだ」って心浮かれながら、久しぶりの身支度に精を出す私だった。
思いがけない約束がうれしくて、私は寝室に初夏の風を入れながら、陽気に小声で歌っていた。
これからすぐに、あなたと会えるだなんて、このときめきは止められない。
いつもは、あなたとの約束までの夜を指折り数えながら待つ私だもの。
そうして、あなたとはタイミングよく会えた。
「コラーゲンは肌にいいから」
と、あなたは言い、昼食はフカヒレのサービスランチをオーダーした。
「具合が悪くても食欲はあったのよ。でもお薬のせいでお肌の調子は確かに悪いわ。
せっかくあなたとお昼間に会えたというのに、こんな肌でこれ以上近づけない。
このスープ、即効性があるといいのに」
私は、笑いで紛らせながら、そのコラーゲンのたっぷり入ったスープを陶製のスプーンですくった。
あなたは、私の苦笑いの顔を見て、緊張がとけたような顔をした。
そして、
「ネクタイをとろう。ビジネスモードからリラックスモードにならないと」
と、にっこり笑って、ネクタイを外した。
そう、
私と会うときは、リラックスしていいの。
「お仕事のことは、今は忘れましょう」
私とあなたのテーブルだけ、心地よい風が流れていた。
私たちは、食事を終えると、レストランの前のちょっとした広場に出て、まぶしい日差しを受けながら少し歩いた。
「さて、どうしようか」
「いい天気ね」
外に出ると、風が気持ちよかった。
あなたは、目を細めながら
「散歩したいけど、おなかが満たされたら眠くなってきたよ」
と言った。
私は、うーん、とちょっと考えてから、あなたにそっと提案した。
「そうね、あなたは昨夜は遅かったのだもの。じゃあ、私のお部屋でお昼寝しましょう」
散歩も捨てがたかったけれど、寝室に風を入れて、あなたの腕まくらでお昼寝っていうのも素敵だと思った。
私は寝室の窓を開けたまま、出かけていた。
初夏の青い風が、数日間で溜め込んだ私の寝室のすさんだ空気を流してくれているはずだ。
そうして、私とあなたは、あなたの会議までの時間、そう、タイムリミットの夕方まで、若葉の薫る風の流れる中で過ごすことになった。
私たちは、風の通る私の寝室で、洋服を脱ぎ、横たわった。
「キスはできないね」
あなたは笑った。
病み上がりの風邪は、人に移しやすい、と誰に聞いたんだっけ。
昨日の私は、まさに、その病み上がり。
迷信かもしれないけれど、忙しいあなたに風邪をひかせるわけにはいかない。
「キスは我慢するわ」
と、言いつつも、気持ちがうわずって、どう振舞っていいのか一瞬悩みながら、でも、
「側にいるだけなら大丈夫よね。
何もしなくてもいいの。あなたがいればいい」
と、私はあなたの腕のつけねに顔をうずめた。
私は、腕の上ではなく、あなたの腕のつけねが好きだ。
私の頭がちょうど入る小さな三角地帯。
ここも腕まくらっていうのかしら。
そういえば、私の好きな小説家は「わきの下まくら」って言っていたっけ。
確かにそうだわ、と急にそんなことを思い出しながら、あなたの胸に手を巻きつけ、軽く目をつぶった。
あなたは、すでに寝息を立てて寝ていた。
そっとあなたの顔を見ると、見たことのないあなたの顔だった。
私はまた定位置に頭を戻し、目の前に広がるあなたの胸の丘をずっと見ていた。
風の香りとあなたの香りを感じながら。
そんなあなたとの時間を思い出しながら、部屋に入り、窓を開けた。
今日も風が気持ちいい。
昨日、あなたと横たわった時、夏の足音が聞えた。
もうすぐ夏がやってくる。
昨日のあなたのなだらかな丘と香りを思い出しながら、頭の中の半紙に筆を動かす私がいた。
風薫る
若葉あふれる窓辺から
そよぐカーテン
夏の足音
THE END Written by Akeming
今回のお話に「風」という言葉、何度も出てきます
いろいろな風、感じられました?
(風邪の風も入る???)
私は風が好き
家から見える木々の枝が揺れると、風を感じてうれしくなります
