MTFのAkemiのblog イタリア児童文学・皆既日食・足摺岬が好き

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私は、イタリア児童文学が大好きで、皆既日食も大好きで、足摺岬も大好きな、団塊の世代に属する元大学教員で、性別はMTFです。季節の話題、お買い物の話題、イタリア語の勉強のしかた、新しく見つけたイタリアの楽しい本の話題などを、気楽に書いていこうと思っています。

長年にわたって正体不明だったブロガーの「ノーベル賞を狙う男」さんが、じつは「葦津珍彦没後の門人」を名乗る「斎藤吉久」さんと同一人物だったことがわかったと、先ほど報告を書きましたので、そのついでに、すでにだいぶ前からわたしが正体を見抜いている「みかきもり」さん=「佐藤雉鳴」さんのことも振り返っておきましょう。

「みかきもり」の正体は? | MTFのAkemiのblog イタリア児童文学・皆既日食・足摺岬が好き

 

このお二人は明らかに別人ですが、思想的にはかなり近く、「同志」と言っても過言でないなと、わたしは思います。

 

 

もう9年も前になりますが、靖国問題をめぐる世上の議論の薄っぺらさに業を煮やしたわたしが、多くのリンクを張りつつ、その時点での自分なりの靖国問題のまとめを書いたとき、記事の半ばあたりで、カトリックの糸永真一司教(故人)のブログ記事に咬みついて「日本のカトリック司教団の左傾化を憂える」みたいなことを書いていた「ノーベル賞を狙う男」というブロガーの発言にもリンクを張っておきました。

靖国神社問題リンク集 | MTFのAkemiのblog イタリア児童文学・皆既日食・足摺岬が好き

 

その「ノーベル賞を狙う男」さんのブログは、糸永司教のブログがご本人の帰天にともない更新停止になったのに先立って、当の糸永批判の記事が書かれてまもなく更新が途絶えてしまっていたので、わたしはてっきりこの人もまた糸永司教と仲良く(笑)天国に旅立たれたのかと思っていたのですが、近年になって(2年ほど前)その糸永批判の記事がほぼそっくりそのまま「斎藤吉久」さんの note に転載されていたことに、つい最近気がつきました。

 

「斎藤吉久」といえば、かの有名な葦津珍彦(戦後の神道言論界で「神道は宗教であると同時に、公的儀礼であり、本来国家的に遇されてこそその存在意義を発揮できるものである。それを無理やり引き離そうとしたGHQの誤れる対神道政策こそが、わが国戦後社会の思想的劣化を招いた元凶である」といった感じのことを書きまくっていた人)に私淑し、「没後の門人」を自称している人として、ときどきウェブ上にも名前が出てくる、その道ではある程度名の通った有名人。

 

活動の場をブログから note に移して、いまも健在であるらしいです。

 

そのことがわかったので、上にリンクしたわたしのブログの過去記事の末尾に「追記」として書き加えておきました。よろしく。

 

たびたびですが、大事なことなので、またリブログします。

 

わたしらが若いころ、アルベール・カミュというと「無神論的実存主義」の立場に立った思想家という評価が一般的で、マスクス主義に肩入れしていたジャン・ポール・サルトルとは一線を画していたものの、カトリックの主流派からは「サルトルにせよカミュにせよ、学ぶと無神論に洗脳されてしまうから、読まないほうがいい思想家」と括られていたように、記憶しています。

 

しかし、今読み直してみると、なかなか普遍性のある思想を述べていたんだなあとも思います。

 

 

 

四谷の聖イグナチオ教会(カトリック麹町教会)には「ザビエル聖堂」という味わい深い空間があります。そこに入ると、日本の寺院のお堂の中にいるのと似た感じがするのです。

 

日本の寺院の多くでは、お堂の主祭壇の近くはお灯明がなければ暗い空間で、そこから周囲をぐるっと見渡すと、縁側の外の、長い軒が尽きた先にみえる庭あたりから、はじめて明るい光が射し込むようになっているため、お堂の中にいるかぎり、いつも光は上よりもむしろ下から来るという感じです。

 

わたしは「あれは陰気でいやだな」と長年思っていたのですが、逆に、キリスト教会に通うのが当たり前になっている今の観点から振り返ってみると「あれはあれでいい雰囲気だったなあ。落ち着いて祈るにふさわしい空間だったなあ。それに比べると、キリスト教会の多くでは、高い窓から惜しみなく光が降り注いで、堂内は天国へのあこがれを掻き立ててくれやすくなっている反面、上からの光が明るすぎて、自己の内面を凝視する求心的な瞑想にはかえって適さない性格もあるなあ」と、思うようになりました。

 

わたしがいつもごミサにあずかっている瀬田教会などはその典型で、聖堂じゅうが明るすぎて、むしろ落ち着かないのです。

 

その点、わたしの知っているキリスト教会のうちで唯一、特異な雰囲気を提供してくれているのが、聖イグナチオ教会の「ザビエル聖堂」です。

 

そこでは、座席に就いた信者の目の高さよりも少し低い線まですだれ(みたいなもの)がかかるように、意図して低い位置にしつらえられたガラス窓があって、そのガラスをはさむかたちで、ほぼ床と同じ高さに、お堂の内外をつないで存在する浅い池が作られています(ガラスの下端には窓枠のようなものがなく、ガラスが直接、水面下数センチまで伸びて水に浸っています)。お堂の中では外光はただ一箇所、そこだけから来ます。しかも、いったん水に反射した光が、たえずわずかに揺れながら、下から控え目で穏やかな光線を送ってきてくれるようになっています。

 

これは求心的な瞑想には適しています。ほっとします。

 

だからわたしは、普段訪ねているキリスト教会では味わえないものを求めたくなったときは、意識してイグナチオ教会のザビエル聖堂に行きます。

 

あの聖堂は、日本の宗教建築のよいところを意識的に取り入れたものらしいです。インカルチュレーションの試みのひとつと言えそうです。

 

教会のご紹介 | カトリック麹町 聖イグナチオ教会