かもめはかもめ、孔雀や鳩やましてや女にはなれない
という歌詞があるが、道の端に咲く小さな雑草の花も
どんなにそれが可愛く可憐であっても決してお店で売られることは無い。
私は子どもの頃、雑草の花が好きで「雑草花壇」なるものを作り、わざわざ雑草を集めて(最終的には心ない親に全部引っこ抜かれた)喜んでいたが
まず普通の感覚の中で、雑草の花を花壇に飾ることはなく、むしろ前述の母のように
邪魔者として引っこ抜かれるのが常である。あんなにも可愛らしい花を咲かせているのにだ。
自分は雑草なんかではない、薔薇だ、百合だと思い込んだとしてもそれは夢。
雑草は雑草で、いくら頑張っても(人間界では)要らない花なのだ。
人間ポジティブでいる事が大切、いつでも明るくいよう、愚痴泣き言はダメだなんて
酷な話だ。隣でまぶしく輝く薔薇の花を見上げながら、いつ引っこ抜かれるかわからない恐怖の中で、日陰の雑草はポジティブでいられるのだろうか。
まあ実際、雑草たちはきっと薔薇の事なんか見上げない。自分たちが根を張る土をじっと見つめ、ただただ生きているのだ。そしてただただその美しい花を咲かせているのだ。
たとえ引っこ抜かれてその場に捨てられ水分を失いしゅんと枯れ果ててもなお
その可愛い花の色は土の上でしんなりとそこに存在しているのだ。
そう思うと人間は、キョロキョロし過ぎなのであろうか。
自分のことで必死なはずなのに、まわりの事を気にしすぎなのであろう。
「あんな風な家に生まれていれば」「あんなにお金があれば」「あんなパートナーに出会えていれば」
人が人を妬む気持ちは本当に辛い。自己憐憫と言ってしまえば簡単なようだが
実際、それを味わっている瞬間、人は胸がえぐられるような苦しさを味わう。
早めに気づいて辞めてしまえばいいのになかなかその自己憐憫を辞められない。
嫌というほど苦しさを味わって、そしてそこに同意者はいないと気づくとやっと
人は隣の薔薇を見上げることを辞めるのだ。いや、辞めるというより
薔薇の花を見て見ぬふりをするのだろう。