アキバ注意報@ -8ページ目

アキバ注意報@

秋葉原が好きな私が、日々の様々な事を語っていきます

 「自民党の負の遺産」という言葉が、昨今よく聞かれた。巨額の財政赤字、社会保障制度の行き詰まり、景気の低迷などなど、これらの原因を戦後の自民党政治に求めた考え方である。もちろんこれは、自民党やその政策に反対する人たちから出た言葉なのだけれど、彼らの主張はいみじくも、戦後政治が自民党そのものであったことをも示している。

 その議論の是非はともかくとして、なるほど戦後社会において自民党が果たした役割はとても大きい。いわゆる「五十五年体制」のなかで、自民党は常に政権の座にあり、主要な政策は彼らが決定してきた。
 しかし、我々が「自民党の負の遺産」をイメージするとき、それは官僚との緊密な関係であったり、派閥同士の談合であったり、公共事業を繰り返して焼け太りしていく、ステレオタイプなものばかりなのではないか。そもそも政官関係が近現代を通じてどのような過程を経たのか、派閥の性格とはどんなものなのか、公共事業の中身は何なのか。あるいはそのような問題は自民党固有の現象だったのか、日本政治における構造上の結果だったのか。このあたりの意識が、どうにも希薄であるように思われる。

 そもそも自民党は、結党の段階から指摘されるような政治体質であったわけではない。それどころか、保守の合一によって生まれたこの政党が、結党時に十年以上続くなどと思った人々は、関係者の間でもほとんどいなかった。したがって、我々が考えているような、非常に強固な組織として常に存在していたわけではないのである。

 よく知られているように、自民党の結党は、左右両派に分裂していた社会党の合一に合わせて、保守党の結束が図られた結果であった。保守党も、政治の方針や、指導者同士の反目があって決して一枚岩ではなかったけれども、革新勢力の拡大を警戒して大同団結したのである。
 初代総裁は鳩山一郎。ただ彼は名誉総裁的位置づけであり、続く石橋湛山も就任直後に病気のために辞任したから、実質的には第三代の岸信介から、自民党の骨格が形成されていく。彼は安保闘争の混乱のなかで、盤石だと思われていた総裁の地位を去ることになる。しかし、この過程が自民党の安全保障をめぐる意識を固めたといえる。そして続く池田勇人は、「所得倍増」に代表されるような経済重視の政策を進めた。そして佐藤栄作の時代において、所得倍増は当初の計画よりも早く実現された。
 この岸・池田・佐藤の時代が、自民党の組織としての流れを決定づけた。自主憲法を志向しながらも、安全保障問題はあまり大きく扱わず、経済成長を持続させることによって国民の支持を得るという姿である。

 その流れを持続させようとしたのが、自民党の次世代たち、田中角栄・三木武夫・福田赳夫・大平正芳だった。国債を発行して公共事業をはじめ、国土の開発を行うこと。福祉や医療など社会保障を充実させ、育児や老後の安定を図ろうとすること。我々のイメージする「自民党的」姿は、このあたりのことだろう。
 しかし、すでにこの時期から、高度成長も限界が訪れようとしていたし、そのひずみも広がっていた。自民党に対する支持も次第に低下するようになる。高成長モデルとして組織化された自民党は、それゆえに高成長を持続させようとし、その組織維持をも目的化していくこととなった。派閥も、岸・池田・佐藤の時代から強化されていたものの、当初は総裁選出のための集団だったものが、派閥の維持拡大を目指すようになっていった。それがこの時代だった。

 鈴木善幸を経て、中曽根康弘の時代が訪れる。日本はすでに世界第二位の経済大国と呼ばれ、それゆえに自民党の方針も修正が迫られるようになる。すでに大平内閣の頃から、政治改革の機運は高まっていたけれど、中曽根はそれを実行に移すことに成功した。これは中曽根内閣が長期政権として安定していたことも理由のひとつだった。
 その後、最大派閥・竹下派を率いる竹下登も、政治改革路線を引き継いだものの、スキャンダルによって対陣を余儀なくされる。バブル全盛の時期に、政権党としての自民党は崩壊過程に入る。
 宇野宗佑を経て海部俊樹が総裁となったときも、課題は政治改革・行政改革だった。そしてこの頃から、自民党のなかで、それまでの慣習を破って党を動かしていこうとする動きが現れた。その一人が小沢一郎であり、彼は所属する派閥・竹下派の分裂とともに党を離れ、その後二十年近くなる現在においても、政界における台風の目であり続けた。もうひとりが小泉純一郎であり、当時はYKKの一人として注目されていたが、彼の場合は組織のなかから「自民党をぶっ壊す」といって総裁になった。

 政権党としての自民党は、次の宮澤喜一が政権の座を去ることによって、ひとつの時代を終える。それは自民党だけでなく、日本にとっても長引く景気低迷、社会の急激な変化を伴う苦悩と模索のはじまりでもあった。
 自民党のほうは、小沢の主導する非自民政権ののち、それが自壊するに及んで再び政権の座を取り戻す。しかし、かつてのような単独政権ではなく、それは社会党や公明党との連立という、「五十五年体制」ではあり得ない姿であった。
 一方で、その後の自民党も政権の座に就くと、行財政改革に着手していく。単独政権時代末期の課題は、橋本龍太郎・小渕恵三・森喜朗・小泉純一郎・安倍晋三・福田康夫
・麻生太郎ら、歴代総理総裁に引き継がれている。

-----

 では冒頭の「自民党の負の遺産」について、改めて考えてみたい。実はこうした「負の遺産」に対する意識は、すでにみてきたように、自民党が政権党にあった時期、それも1970年代から明らかになりつつあった。その後の自民党は、そうした「遺産」の是正を目指すようになる。
 そして、1990年代の政治改革・行政改革の流れは、まさにその延長上にあって、特にふたりの政治家に脚光を浴びせた。小沢一郎と小泉純一郎である。彼らは同じ自民党出身でありながら、取った行動も、方向性も違っていたけれど、「自民党の負の遺産」を是正しようとする意図は共通していた。一方が自民党の総裁となり、政権を率いており、他方が野党の代表としてこれに対峙する。しかしそれでも「自民党の負の遺産」は、2010年代にも解消されたわけではなく、亡霊のように漂っている。

 「自民党の負の遺産」は、なるほど高度成長に沿って組織化された政党が作り上げたものかもしれない。この点について、私も自民党を擁護しようとは思わない。
 しかし、その問題点は、すでに述べてきたように、1970年代には次第に自覚されるようになり、1990年代には政治改革の本丸として意識されてきた。そして、自民党の総裁が、最大野党の代表が、それぞれ「負の遺産」の克服を目指した2000年代もあった。2010年代は、自民党が再び野党に転落し、非自民政権としては恐らくはじめてしっかりした基盤をもつ民主党が与党となった。ところがそれでも「自民党の負の遺産」は、深い霧になって我々の前途を暗く覆っているかのように言われている。

 ある意味で、「負の遺産」は日本社会にとって構造的な要因なのだろう。それは自民党があまりにも長い間、政権の座にあったことで、自民党固有の問題と、社会の構造上の問題とが、混同された結果であるように思われる。
 自民党は、結党時の当事者にとってすら、十年以上も長続きする組織とは思われていなかった。それが戦後の高度成長モデルの一部を担ったがゆえに、その成功体験とともに組織の維持そのものが目的化してしまった。もちろんその結果、自民党には政治とカネの問題がつきまとい、派閥争いは政治課題そっちのけで行われ、無駄な予算が使われたことも確かである。
 ただし、高度成長モデルから、安定成長モデルへの脱皮を果たせなかったのは、自民党だけだったのか。将来的に福祉や医療の負担が増大することや、少子高齢化によって社会構造が大きく変化することは、すでに1970年代から指摘されはじめていた。それに目をつぶっていたのは、誰だったのか。