ユーはブサイクだけど、心がキレイ

ー事務所には、自分で履歴書を送ったの?

「小学校6年生の夏に送りましたね。でも、1年くらい音沙汰なくて。中学になって、僕、いくつかダンス教室に通ってて。そのなかのひとつの社長に、゛授業料いらんから、タレントを目指すコースに入らないか"って言われたことがあったんです」

ー期待されてたんだね。

「で、生まれて初めて、゛話があるから聞いて"って、親と家族会議みたいなことして。でも、゛ダメ"って言われて。授業料はタダにしてもらっても、教材費とかはそれなりの金額で。僕ん家、そんな裕福じゃなかったんで。゛バイトできるようになったら働いて返すから"って言ったんですけどね。゛やりたい"って想いだけじゃ、どうにもならないこともあんのかなって思ったら、次の日にジャニーズ事務所からオーディションの通知が来て」

ーすごいタイミングだね。オーディションはどうだった?

「僕、モヒカンで行ったんです」

ーえぇ?ヤンキーだったの?

「ケンカ三昧だったとか、そういうんじゃないですよ。小学校のときから大人に混ざってダンスやってたんで、まわりの大人を見て、゛その髪型、カッコいいな"ってマネするようになって。あ、一度、親父に゛パーマかけてみろ"って言われて連れてかれて、パンチパーマみたいになっちゃったこととかもあります(笑)。まあでも、モヒカンは中学に上がって、なめられたらあかんって思ってやったんですけどね」

ーそれでよくジャニーズに入れたね。

「ですよね(笑)。しかも、クソビッグマウスで。『THE夜もヒッパレ』って番組があったんですけど、大野(智)くんとか、何人かのJr.でできたMAってユニットが出てて。オーディションの面接で、゛MAさん、余裕で越しますわ!"ってのたまいましたからね」

ーハハハハハ。

「で、なんか面接中、入り口の壁にもたれかかって、僕をずっと見てるおじいちゃんがいたんですよ。ずっと見てるんで、゛なんやねん、こいつ"って、にらみ合いになって(笑)」

ーそれって、もしかして……。

「そう(笑)。でも、当時はわからなくて。で、オーディションは゛後ほど電話連絡します"って言われて終わって」

ー受かったと思った?

「えらそうなことも言ったし、受からないなって。でも、その夜、電話が鳴って、゛次、どこどこに来てください"って。゛いけたやん!"って」

ー面接でにらみ合ったのが社長だってわかったのは、いつ?

「僕、うどんが食べ物の中で、いちばん好きなんですけど、なんか関ジャニ∞さんの舞台とかに呼ばれると、例のおじいちゃんが、うどんをいっつも食べさせてくれて。僕のモヒカンの先っぽをやたら触ってきて、゛ユー、顔だけじゃなくて、髪の毛もいかついねえ"って。だから僕の中では、うどんを食べさせてくれるおじいちゃんって認識だったんですけど、ついに、゛あんた誰なん?"って聞いたら、゛僕はジャニー喜多川だよ"って言われて(笑)」

ーハハハハハ。社長に「ブサイク」って言われたこともあるらしいね。

「あ~、それは入って2、3年たってからかな。゛ユーはブサイクだけど、心がキレイ"って、全力でフォローをされたことがあります(笑)」

ドラムのさらに後ろ。もう電飾よりも後ろ

ーJr.の活動は順調だった?

「全然。濵ちゃんが同期なんですけど、濵ちゃんはBOYSってグループをソッコーで組んだんです。マイクを持って歌ってて、うらやましかったですね。僕はステージに立つとき、いちばん後ろ。もうドラムのさらに後ろ。もう電飾よりも後ろで。゛なんでここやねん!"って、悔しかったです」

ーデビューについてどう思ってた?

「したかったですよ。でも、それより、目の前の人に楽しんでもらいたいってことと、゛目立ちたい! 有名になりたい!"ってことばっかり考えてました。目立ったもん勝ちでしょって」

ーただ当時は、「関西ではアイドルは育たない」って言われてたよね?

「地域柄、お笑いが強いですからね。東京のJr.と比較しても、出られるテレビ番組も限られてるし、雑誌の露出だって少ない。そもそも、先輩のバックに立てる数が全然ちがう」

ーそんな逆境で、よく心が折れなかったね。

「たしかに東京Jr.はうらやましかったですよ。うーん、でも、だからって、そこ言い出したって何も始まらない。生まれた場所のせいにしたってしょうがないでしょ!?どうにもならないことを悩み続けるより、目の前にあることに一生懸命になったほうがいい。それに、なんか変な自信もあったんですよ。今あるお仕事を、全力でやってれば誰かが見ていてくれるって」

ーなるほど。

「ま、゛東京と比べると……"なんて考えるほど頭がよくなかったんで、そこまで不利だと思ってなかったんですけどね(笑)。とにかく誰よりも目立ってやろうってことだけ考えてました。関ジャニ∞さんのライブに出たときも、いちばん目立とうと思ってましたから。゛腹黒い!"って言われること、多々ありましたけど」

ーすごくポジティブだけど、やめようと思ったことってなかったの?

「よく先輩がテレビや雑誌で、゛やめようと思ってました"とか言うときがあるじゃないですか。僕、゛だったらやめろや!"って口には出さないですけど、ずっと思ってたんです。゛こっちは、がんばってやっとんや。やめたかったら黙ってやめたらええやんけ!"って。そんなこと言っときながら、振り返れば、俺もやめようと思う時期はあったんですけどね(笑)」

ーそれっていつ?

「3回あって。高校生から大学に上がるときと、ハタチのとき。最後が去年の5月ですね。とくにラストのときは、本気でやめようと思ってました」

10年後も、いっしょに笑ってるんやろな

ー2004年には、中間くんとB.A.D.のメンバーになったよね。

「最初は3人で、ふたりが年上。お兄さんといっしょってイメージでしたね」

ー中間くんとは、性格が真逆だったよね。

「そうですね」

ー最初から仲よかったの?

「隠してもしょうがないんで言っちゃうと、仲悪かったです。めっちゃ仲悪かった(笑)。言うことも、やることも真逆でしょ。少なくとも僕は合わないなって思いましたね」

ーどうやって仲よくなったの?

「少しずつかな。゛俺とはちがう、そういう考えもあるんや"って思えるようになっていったのかな。僕にないものを持ってるんで。大きかったのは、関西Jr.だけでコンサートをやるってなったときで。淳太がステージで笑ってるのを見て、゛10年後も、いっしょに笑ってるんやろな"って思えた瞬間があって」

ー出会って、もう10年以上の月日がたったね。

「出会えてよかったなって。僕、ひとりでいるのがイヤなんですね。ごはんも、ひとりじゃあんまり行かないんです。最近、ひとりでごはん屋さんに行ったとき、メンバーにグループメールで、゛今、これ食べてんで!"って送ったら、みんな゛美味しそうやな"って返してくれたんですけど、淳太は店に来てくれたんです。゛おなか、すいたから"としか言わなかったんですけど。゛ひとりなのイヤやろ"とか、言葉にはしないですけど、寄り添ってくれる。いっしょにおってよかったなって思います。ありがとうなって」

ずっと関西Jr.のメンバーに、ゴメンなって思ってました

ー2007年にHey!Say!JUMPがデビューしたときは、どう思った?

「年下のコたちもいたけど、薮(宏太)くんたちがおったから、まだ次世代のグループって感じもしなくて……。でも、JUMPが結成されたとき、いっしょにライブしてたんですよね。だから正直、悔しかったかな」

ーその後、高校卒業。さっき言ってた1度目のやめようと思ったタイミングだよね。

「そうですね。僕、こんな見た目のくせに、じつは心配性で(笑)。ほかのコが、ゲストとかに呼ばれて、自分が呼ばれなかったりすると、゛なんでなん"ってむっちゃ考えるコだったんですね。ドンッて重くなるんですよ。あせるというか。何があかんかったんやろって。で、同級生は大学に行ったり、就職したりする時期で。漠然とですけど、゛自分はもうやってけないのかな"って」

ーはた目には、順調にキャリアを重ねてた印象があるけどね。

「けっこう先を見るタイプなんです。一歩先を見ちゃうっていうか。だから、見切りをつけるのも早かったんです」

ーただ、やめなかったよね。

「゛このライブに出たら、もうやめよう"って思ってたライブに出たんです。そしたら、ちょうど『ごくせん』のプロデューサーさんが見に来てくれてて。直後に『ごくせん』が決まって」

ーすごい、タイミングだね。ハタチのときは?

「そのときも、ぼんやり゛そろそろ限界かな"って思ってた時期で。リビングに座ってメシ食ってたのかな。そしたら突然、オカンに゛あんたのやりたいようにやりや"って言われて。相談もしてないし、何も言ってないんですよ。でも、そう言われたことで、またやる気が出たというか。そしたら、すぐに『流れ星』が決まって。僕、やめようと思うと、何かが決まるんです。最後にやめようと思った後には、デビューが決まったし。運がいいんです」

ーそれだけじゃないと思うよ。

「もちろん、何か仕事が決まるということは、その前に努力してきたことが評価されたのかなって。ただ、みんな同じだと思うんですけど、暗闇の中を走ってるようなもんじゃないですか」

ーどういうこと?

「全力で走り続けても、いつ努力が報われる瞬間が訪れるかなんてわかんない。でも、走って、走って、もうダメだって立ち止まってしまったら、じつはその10m先、もっと言えば、あと一歩先に、夢がかなう瞬間があったかもしれない。ありきたりですけど、あきらめたら、立ち止まってしまったら、そこで終わりなんです。難しいですけどね。でも、限界だと思ったとこから、絶対にもう一歩だけでも走り続けたほうがいい」

ーなるほど。覚えてるけど、『ごくせん』、がんばってたよね。

「あのときも、とにかく目立ちたいってのが強かったです(笑)。とりあえず爪あと、残さないとって」

ーかなり残したと思うよ。

「うーん。でも……。これは、初めて言うんですけど、ずっと申しわけないなって思ってました」

ー誰に対して?

「関西jr.のメンバーに。関西jr.を代表して僕が出て行ってるのに、『ごくせん』に出たことで、関西jr.が盛り上がったのかっていったら、そうでもない。KAT-TUNみたいに゛ドーーン!"っていくんやろなって思ったら、そうじゃなかった。その後も、いろんなチャンスを僕はいただいたのに、゛ウワッ!"て人気が出ないことに、ずっと関西jr.のメンバーに対して、ゴメンなって思ってました。ずーっと、ゴメン、ゴメンなって」

桐山照史という人間は、笑ってなきゃいけない

ー『ごくせん』の撮影が終わったころ入院してるよね?

「……はい」

ー原因って?

「発作が起きて。過労とかが原因らしいんですけど、気管支炎で。ちっちゃいときはでなかったんですけどね。今は季節の変わり目に、たまに出るくらいですけど」

ーじゃあ、右耳の難聴はいつから?

「それは、関西jr.でツアーを始めたころかな」

ーそうだったんだ。

「プレッシャーとか精神的なものが原因らしいんですけどね。僕、昔からどんなステージに立っても、まったく緊張しないんです。゛ザ・ワイルド!"みたいな感じに見えるでしょ?でも、見た目と心はワイルドでも、体はビビリなんです(笑)。関西jr.のリーダー的存在だねって言われることもあったけど、何の貢献もできてないプレッシャーが、メッチャおっきかったんです。逃げ出したかったし、平気なふりしても、体はおびえてたんでしょうね」

ーそうだったんだ。

「今は治ってるんで、全然大丈夫なんですけど。耳元でヘリコプターが飛んでるような音が聞こえたり、体中の血が流れてるような音が聞こえたりしたんです。その音をかき消したくて、ひとりのときは、゛ああすればよかった"とか、゛あれは絶対失敗しちゃいけない"とか、頭の中で延々考えるんですね。無音がうるさすぎるんですよ、僕にとっては。だから、人としゃべってたほうが休まるんで、あんまりひとりは好きじゃないんです」