私はあの日、ちょうど小学校の卒業式を1週間後に控え、卒業制作である時計に色を塗ってる所でした。
 
突然教室が揺れはじめました。
 
 
咄嗟に校内放送で机の下に潜りなさいという支持が出され、私達児童は机の下に潜りました。
 
 
友達の絵の具の水入れの中の水に津波が起きていて、地震の揺れが激しくなると同時に私の机のサイドにかかっていた縄跳びも激しく揺れはじめました。
 
 
その頃のことを一言で表すと、“怖かった”。
 
 
めちゃくちゃ怖かったです。
 
 
先生から保護者へ引き渡され、友達やクラスメイトが一人ずつ帰っていく中私は、
 
母が迎えに来てくれるとをただひたすら待ちました。
 
 
しかし、来ませんでした 。
 
 
 
いい加減来ないとわかった時、同じ地区に住んでる男の子のお母さんが 、一緒に帰ろうって、声を掛けてくださいました。
 
 
なんで来ないんだろうって、どうして来てくれないんだろうって、不安を抱えながら帰り道を歩いていました。
 
 
しばらく歩いていると、よく見覚えのある車が遠くの方から近付いて来るのが見えました。私の母でした。
 
 
不安で仕方なかった私は泣きました。
 
そして、家に帰り、家中の安全を確認し、1日を終えました 。
 
停電がものすごく続き、隣の家が東電さんで働いてらっしゃるのですが、それが唯一の救いでした。
 
でも、よく考えてみると、東北の方はもっと不安だったのではないかと思います。
 
夜も眠れないくらい、いえ、寝るところもなく食べるものもなく行く宛もない、町はそんな方でゴッタがえっていたかもしれません。
 
食品も何もかもが不足し、募金活動が何回も行われ、食料と衣類が東北へ送られました。
 
私の地元もここ2、3年雪で孤立し衣類よ食品もなくなり、しかし他から調達したくても雪で塞がれました。
 
その時、東日本大震災の時はもしかしたらこんなことが..と、ふとそんなことを思いました。
 
長くなりましたが、絶対忘れてはならないと思い、この記事を投稿させていただきました。
 
 
 
ここまで読んでくださった方がもしいらっしゃったなら、幸いです。
 
 
亡くなられた方へご冥福をお祈りいたします。
 
 
震災の辛さ、傷みを経験したことない人達に伝えていけたらと思います。
 
 
 
 
ありがとうございました。