新卒の社会人や学生たちも、四月の硬さを少しずつ脱ぎはじめ、ようやく自分の生活のテンポをつかみかけている六月のはじめ。空気は、どこか湿り気を帯びはじめていた。
昨夜、妹と立川でアイスショーを観た。
競技から引退したとはいえ、やはりトップアスリートの演技は素晴らしく、終演後もしばらく興奮が冷めなかった。ホテルに戻ってからも、妹と彼女たちの演技について深夜まで語り合ってしまった。
翌日、新居へ戻る妹と駅で別れた。
私は、取引先との商談のため、羽田へ向かうことになっていた。中央線の特快に乗れば早いのだけれど、あの人の多さを思うと少し気が重い。始発で座って行ける南武線の方が、今の自分には合っている気がした。
車両の隅、ドア横の座席に腰を下ろした。
昼下がりの南武線の車内は、座席に少し空きがあり、立っている人もまばらだった。車内には、どこか中途半端な静けさが漂っている。誰もがスマホか、窓の外か、あるいは自分の中の何かに視線を向けていた。
いくつか目の駅を出てしばらくした頃、仕事のメールに目を通していると、
「やっぱりいた〜!」
突然、弾むような声が車内に響き、驚いてスマホから顔を上げた。
進行方向側の連結扉から、大学生くらいの女の子が首だけ覗かせていた。周りの視線などまるで気にしていない様子で勢いよく扉を開け放って、そのまままっすぐこちらへ向かってきた。
そして、向かいのドアを挟んで対角の席に座っていた彼女より少し年上に見える男の子の前で立ち止まった。
「この時間の電車って言ってたから、ひょっとしてと思ったら、やっぱりいた〜。」
その言葉で、さっきの駅で彼が私の横のドアへちらりと視線を向けていたことを思い出した。女の子が乗ってくるかもしれないという淡い期待が、あの小さな視線に混じっていたのだろう。
男の子は、少し遅れて笑った。
そして、すぐに立ち上がった。
「ここ、座りなよ。」
「えっ、いいんですか〜。」
女の子はそう言いながらも、うれしそうにその席へ腰を下ろした。
男の子は、彼女の向かいに立ち、吊り革につかまった。
ぱっと見は、仲のいい先輩後輩。距離は近い。けれど、まだ恋人とまでは言い切れない。そんな、曖昧でやわらかな空気をまとっていた。
女の子が、ふいに男の子の腕を見上げて言った。
「うわぁ、先輩の二の腕、まるで岩ですね!」
「いや、そんなことないよ。そうかな。」
否定しながらも、男の子は少しうれしそうだった。
「そうですよ〜。私なんか見てくださいよ。ほらっ、プルプル〜。お餅ですよ、お餅〜。」
そう言って、女の子は自分の二の腕をぷるぷると揺らして見せた。
男の子は、少しだけ身をかがめてそれを覗き込んだ。ほんの一瞬だったけれど、彼女の二の腕の動きを記憶に留めようとするように、目の奥が少し光った気がした。
女の子は、そのまま話を続ける。
「〇〇センパイがぁ、お酒飲みに行こうって言うんですよ〜。でも私、ほら、十九歳じゃないですか。成人してるけど、お酒はまだ飲んじゃいけないし、ねっ。」
「それは、よくないよ。断らないと……。」
「でも〜、センパイの誘いじゃないですかぁ。断りにくいじゃないですか。」
「いや、お酒は飲めませんって、はっきり断らないと……。」
女の子は少し考えるふりをしてから、下から男の子をじっと見上げた。
「じゃあ先輩、一緒に断りに行ってもらえますか。」
男の子は、一瞬たじろいだ。
「おっ、おう……。」
「やったぁ〜。約束ですよ。」
そう言って、女の子は小指を差し出した。
男の子も、つられるように小指を出す。
車内の何人かが、明らかに二人のやり取りに意識を向けはじめていた。露骨に聞き耳を立てているわけではない。ただ、若い二人の会話があまりにも無防備で、微笑ましくて、つい耳に入ってしまうのだ。
女の子は、さらに畳みかけるように言った。
「あっ! そうだ先輩、けいきゅんって知ってます?」
「ケイキュン?」
「違います。けいきゅんです。はい、言ってみてください。けいきゅん。」
「けっ、けいきゅん!?」
「違いますよ〜。もっと可愛く。ほら、け、い、きゅ、ん、ですよ〜。」
「けっ、けっ、けいきゅん。」
「そうです。けいきゅんです。」
そう言って、女の子はにっこり笑いながら、小さなぬいぐるみを取り出した。
「ほら、これがけいきゅんです。……あっ、そうだ。もうひとつあるんですよ。ほら、けいきゅんです。」
そして、左手に持っていたぬいぐるみを、男の子に向かって勢いよく差し出した。
まるで、授業参観でいいところを見せようと元気よく手を挙げる小学生のようだった。
「じゃあ、これ、先輩にひとつあげます。ハイ!」
その瞬間、男の子の顔つきが変わった。
――え、それ、俺にくれるの?
心の中でそんな声が鳴っているのが、こちらにまで聞こえてきそうだった。
「あっ、ありがとう……。」
「お揃いですね。ふふ。」
「あっ、そっ、そうだね。」
女の子は、自分のけいきゅんを両手で持ち、満面の笑みを浮かべている。男の子も、照れながら、そのぬいぐるみを大事そうに見ていた。
ああ、これは、ほぼ陥落だな。
この会話に聞き耳を立てていた誰もが、そう思ったに違いない。
昼下がりの空いた車内に、見知らぬ誰かの恋がゆっくり立ち上がっていく。その予感だけで、空気は少しやさしくなる。
そこで、女の子がまた話題を変えた。
「先輩、鉄道とか電車とか好きですか?」
「電車?」
「そうです。鉄道マニアっていうんですか。あっ、鉄ちゃんってやつです。」
「ああ、鉄道マニアね。いや、どうかな、そんなに……」
「私ね、鉄ちゃんたちが集まるフリマとかに行くんです。」
「えっ、そうなの!?」
「私ね、そういうイベントでコスプレしてるんですよ〜。あっ、そうだ。今度遊びに来てくださいよ〜。」
「えっ、いいの?」
「はい。ぜひ来てください。待ってます!」
もう、何人かは完全に二人の会話の行方を見守っていたと思う。
若い男の子が、少しずつ期待を膨らませていく。その様子が、あまりにもわかりやすく、そして少し懐かしい。車内の静けさは、いつの間にか小さな劇場のようになっていた。
すると女の子は、何でもない顔で言った。
「彼氏がぁ、エロいコスプレしてお客集めて来いって言うんですよ〜。どう思います?」
その瞬間、車内の空気がピンと鳴った気がした。
男の子の顔が強張る。
「かっ、カレシ!?」
「あっ、鉄ちゃんって言いましたけど、彼、バスも好きなんです。でね、自分で電車とかバスとかの写真を撮ってきて、その下に、電車とかバスの名前? みたいなのとか……」
「型式……」
男の子が、小さく言った。
「そう、それです。型式? とか、いつ作られたとか……」
「製造年月……」
「そう、それ!」
女の子は、わかったような、わかっていないような顔でうなずいた。
「あと、重さとか、ドアの数とか、どこで走ってたとか、他にもよくわかんない数字とかいっぱい書いて、自分はこれが好きとかも書いて、それを冊子にして売ってるんですよ〜。あんなの見て、何が面白いんですかね。」
男の子は、数秒黙った。
そして、力なく言った。
「それ、もうカタログやん……」
ちょうどその時、電車がホームへ滑り込んだ。
かわさきぃ〜、かわさきぃ〜。終点です――。
アナウンスが、妙にきれいな幕引きのように車内へ響いた。
聞き耳を立てていた乗客たちは皆、きっと、この列車が淡い恋の終着駅へ向かっているのだと信じて疑わなかったに違いない。
けれど、女の子の無邪気なひと言が、その行き先を見えなくしてしまい、男の子の淡い期待だけが、吊り革の下で行き場を失っていた。
私は、少しだけ笑いをこらえながら立ち上がった。その時、隣に座っていた初老の御婦人と目が合った。
言葉を交わすまでもなかった。
ほんの少しの苦笑いだけで、私たちは、若い男の子への同情と、この見事な肩透かしへの可笑しさを、たしかに共有していた。
了
昨夜、妹と立川でアイスショーを観た。
競技から引退したとはいえ、やはりトップアスリートの演技は素晴らしく、終演後もしばらく興奮が冷めなかった。ホテルに戻ってからも、妹と彼女たちの演技について深夜まで語り合ってしまった。
翌日、新居へ戻る妹と駅で別れた。
私は、取引先との商談のため、羽田へ向かうことになっていた。中央線の特快に乗れば早いのだけれど、あの人の多さを思うと少し気が重い。始発で座って行ける南武線の方が、今の自分には合っている気がした。
車両の隅、ドア横の座席に腰を下ろした。
昼下がりの南武線の車内は、座席に少し空きがあり、立っている人もまばらだった。車内には、どこか中途半端な静けさが漂っている。誰もがスマホか、窓の外か、あるいは自分の中の何かに視線を向けていた。
いくつか目の駅を出てしばらくした頃、仕事のメールに目を通していると、
「やっぱりいた〜!」
突然、弾むような声が車内に響き、驚いてスマホから顔を上げた。
進行方向側の連結扉から、大学生くらいの女の子が首だけ覗かせていた。周りの視線などまるで気にしていない様子で勢いよく扉を開け放って、そのまままっすぐこちらへ向かってきた。
そして、向かいのドアを挟んで対角の席に座っていた彼女より少し年上に見える男の子の前で立ち止まった。
「この時間の電車って言ってたから、ひょっとしてと思ったら、やっぱりいた〜。」
その言葉で、さっきの駅で彼が私の横のドアへちらりと視線を向けていたことを思い出した。女の子が乗ってくるかもしれないという淡い期待が、あの小さな視線に混じっていたのだろう。
男の子は、少し遅れて笑った。
そして、すぐに立ち上がった。
「ここ、座りなよ。」
「えっ、いいんですか〜。」
女の子はそう言いながらも、うれしそうにその席へ腰を下ろした。
男の子は、彼女の向かいに立ち、吊り革につかまった。
ぱっと見は、仲のいい先輩後輩。距離は近い。けれど、まだ恋人とまでは言い切れない。そんな、曖昧でやわらかな空気をまとっていた。
女の子が、ふいに男の子の腕を見上げて言った。
「うわぁ、先輩の二の腕、まるで岩ですね!」
「いや、そんなことないよ。そうかな。」
否定しながらも、男の子は少しうれしそうだった。
「そうですよ〜。私なんか見てくださいよ。ほらっ、プルプル〜。お餅ですよ、お餅〜。」
そう言って、女の子は自分の二の腕をぷるぷると揺らして見せた。
男の子は、少しだけ身をかがめてそれを覗き込んだ。ほんの一瞬だったけれど、彼女の二の腕の動きを記憶に留めようとするように、目の奥が少し光った気がした。
女の子は、そのまま話を続ける。
「〇〇センパイがぁ、お酒飲みに行こうって言うんですよ〜。でも私、ほら、十九歳じゃないですか。成人してるけど、お酒はまだ飲んじゃいけないし、ねっ。」
「それは、よくないよ。断らないと……。」
「でも〜、センパイの誘いじゃないですかぁ。断りにくいじゃないですか。」
「いや、お酒は飲めませんって、はっきり断らないと……。」
女の子は少し考えるふりをしてから、下から男の子をじっと見上げた。
「じゃあ先輩、一緒に断りに行ってもらえますか。」
男の子は、一瞬たじろいだ。
「おっ、おう……。」
「やったぁ〜。約束ですよ。」
そう言って、女の子は小指を差し出した。
男の子も、つられるように小指を出す。
車内の何人かが、明らかに二人のやり取りに意識を向けはじめていた。露骨に聞き耳を立てているわけではない。ただ、若い二人の会話があまりにも無防備で、微笑ましくて、つい耳に入ってしまうのだ。
女の子は、さらに畳みかけるように言った。
「あっ! そうだ先輩、けいきゅんって知ってます?」
「ケイキュン?」
「違います。けいきゅんです。はい、言ってみてください。けいきゅん。」
「けっ、けいきゅん!?」
「違いますよ〜。もっと可愛く。ほら、け、い、きゅ、ん、ですよ〜。」
「けっ、けっ、けいきゅん。」
「そうです。けいきゅんです。」
そう言って、女の子はにっこり笑いながら、小さなぬいぐるみを取り出した。
「ほら、これがけいきゅんです。……あっ、そうだ。もうひとつあるんですよ。ほら、けいきゅんです。」
そして、左手に持っていたぬいぐるみを、男の子に向かって勢いよく差し出した。
まるで、授業参観でいいところを見せようと元気よく手を挙げる小学生のようだった。
「じゃあ、これ、先輩にひとつあげます。ハイ!」
その瞬間、男の子の顔つきが変わった。
――え、それ、俺にくれるの?
心の中でそんな声が鳴っているのが、こちらにまで聞こえてきそうだった。
「あっ、ありがとう……。」
「お揃いですね。ふふ。」
「あっ、そっ、そうだね。」
女の子は、自分のけいきゅんを両手で持ち、満面の笑みを浮かべている。男の子も、照れながら、そのぬいぐるみを大事そうに見ていた。
ああ、これは、ほぼ陥落だな。
この会話に聞き耳を立てていた誰もが、そう思ったに違いない。
昼下がりの空いた車内に、見知らぬ誰かの恋がゆっくり立ち上がっていく。その予感だけで、空気は少しやさしくなる。
そこで、女の子がまた話題を変えた。
「先輩、鉄道とか電車とか好きですか?」
「電車?」
「そうです。鉄道マニアっていうんですか。あっ、鉄ちゃんってやつです。」
「ああ、鉄道マニアね。いや、どうかな、そんなに……」
「私ね、鉄ちゃんたちが集まるフリマとかに行くんです。」
「えっ、そうなの!?」
「私ね、そういうイベントでコスプレしてるんですよ〜。あっ、そうだ。今度遊びに来てくださいよ〜。」
「えっ、いいの?」
「はい。ぜひ来てください。待ってます!」
もう、何人かは完全に二人の会話の行方を見守っていたと思う。
若い男の子が、少しずつ期待を膨らませていく。その様子が、あまりにもわかりやすく、そして少し懐かしい。車内の静けさは、いつの間にか小さな劇場のようになっていた。
すると女の子は、何でもない顔で言った。
「彼氏がぁ、エロいコスプレしてお客集めて来いって言うんですよ〜。どう思います?」
その瞬間、車内の空気がピンと鳴った気がした。
男の子の顔が強張る。
「かっ、カレシ!?」
「あっ、鉄ちゃんって言いましたけど、彼、バスも好きなんです。でね、自分で電車とかバスとかの写真を撮ってきて、その下に、電車とかバスの名前? みたいなのとか……」
「型式……」
男の子が、小さく言った。
「そう、それです。型式? とか、いつ作られたとか……」
「製造年月……」
「そう、それ!」
女の子は、わかったような、わかっていないような顔でうなずいた。
「あと、重さとか、ドアの数とか、どこで走ってたとか、他にもよくわかんない数字とかいっぱい書いて、自分はこれが好きとかも書いて、それを冊子にして売ってるんですよ〜。あんなの見て、何が面白いんですかね。」
男の子は、数秒黙った。
そして、力なく言った。
「それ、もうカタログやん……」
ちょうどその時、電車がホームへ滑り込んだ。
かわさきぃ〜、かわさきぃ〜。終点です――。
アナウンスが、妙にきれいな幕引きのように車内へ響いた。
聞き耳を立てていた乗客たちは皆、きっと、この列車が淡い恋の終着駅へ向かっているのだと信じて疑わなかったに違いない。
けれど、女の子の無邪気なひと言が、その行き先を見えなくしてしまい、男の子の淡い期待だけが、吊り革の下で行き場を失っていた。
私は、少しだけ笑いをこらえながら立ち上がった。その時、隣に座っていた初老の御婦人と目が合った。
言葉を交わすまでもなかった。
ほんの少しの苦笑いだけで、私たちは、若い男の子への同情と、この見事な肩透かしへの可笑しさを、たしかに共有していた。
了








