(東奥日報 令和2年2月20日 サブカル最前線より)
今までのことをあらためて簡単にまとめてみたのでどうぞ。
「国内におけるプラスチックモデルの発祥地、その地は布施市(東大阪市)」から始まった、
その知られざる真実、かつて、布施市には㈱日本プラスチック、という日本初のプラスチックモデルを開発発売した今となっては謎のメーカーが存在した。
そして、その兄弟会社であった「ハマライト化学」は東京へ進出し日本のプラモデル業界の黎明期において大きな役割を果たした。
そして東の東京では、㈱和工樹脂というメーカーが車のプラモデルとしては初の「ダットサン1000」を発売、そして、マルサン商店が日本初と称して「ノーチラス号」等を発売した。
① 「定説」というものがある、辞書で引くと「解釈が定まっていて議論の余地がない事象」
「一般に認められ確定的であるとされている説」、等と書かれている、この定説はいろい
ろな学問等に多く存在している、そして、それはプラスチックモデルの歴史においても例
外ではない、しかし、定説というものはある日突然に覆されることも珍しくはない、
しかし、その定説を覆すことは困難である、
さて、プラスチックモデルを日本で初めて開発し発売したメーカーはどこだったのだろうか
そして、それはいつ頃のことだったのだろうか、
多くのプラモデル愛好家、プロ、アマを問わず多くの研究家の方々がその解明に努めてきた、
プラスチックモデルが世に現れてまだ60数年しか経っていない、
いや、ある意味、60年以上も経ってしまった、その日本初のプラスチックモデルを解明する
にはあまりにも資料が少なく、今となってはそれらの現物等もほとんど残っていない、
また、当時関わっていた方々も、つまり生き証人といえる方々もほとんど存在していないのが
現実である。
○ 捏造されたプラモデルの歴史
そのような現実の中で、プラスチックモデルの開発、発売の一番手は「マルサン商店」である
という定説が作られてしまった、
そう、日本初のプラスチックモデルは昭和33年12月に発売された「マルサン商店」の
「原子力潜水艦ノーチラス号」である、という捏造された定説である。
たかが、プラスチックモデルの歴史であるかも知れない、しかし、それが捏造されたものとし
たら正さなければなるまい、その捏造された歴史がこの先永遠に語り継がれてはいけない、
真実があるとしたらそれを今後語り継いでいかなければならないだろう。
結論から先に言うと、日本初のプラスチックモデルを開発し問屋の流通をえて発売したのは
㈱日本プラスチックであった、その第一弾が、昭和31年10月頃に発売した「ゼロ戦」、
第二弾がその翌年の昭和32年春に発売したゴム動力式の「原子力潜水艦ノーチラス号」で
あった、つまり、その「ゼロ戦」はマルサン商店が発売したノーチラス号の発売よりも2年前
のことであった。
② なぜ捏造された「マルサン説」が今までずっと伝えられてきたのか、
〇 その第一の根拠となったのが当時の業界紙である日本模型新聞の発売広告であった、
(昭和33年12月25日 日本模型新聞 ㈱ジートッププレス監修済み)
そう、このマルサン商店の新規発売広告であった、
ただ、当時の時代のことを考えるとこのような広告は常套手段であった、
「本邦初」、「日本初」、「世界初」、等という謳い文句は常套手段であった、
ハッタリ、誇大広告という手段は当たり前の時代であったということである。
日本模型新聞社はメーカーから持ち込まれた広告、記事を載せる、よほどのことがない限りそれが事実なのか本当なのかをいちいち精査することはない、そんなこと当たり前のことであり、
メーカーから持ち込まれた広告、記事をそのまま載せるということ、
そのようなことを充分に理解していないと間違った判断をしてしまう、ということである、
そう、今の時代の感覚でもって昔のことを判断するのは非常に危険である、その点は特に歴史を研究する上では重要であろう、
実際に当時は、そのような「世界初」、「日本初」、又は、「実用新案登録」等と称して嘘の広告で発売していた模型等は数多く存在していたことも事実である、
そして、そのようなことに対しても特にクレーム等を付けることもない、実におおらかな時代であったことも忘れたはいけないのである、つまり、上記のマルサン商店のノーチラス号の広告はマルサンが勝手に出した広告、記事で何の根拠もない広告であった、
要するに、マルサン商店はハッタリ、パクリというのが常套手段であった、ということも忘れてはいけない、
また、当時のマルサン商店の関係者の方々の証言についても、いろいろと疑問が残るものが多い、それらの方々の証言には都合のいいことばかりしか証言がなく、本当の真実というものが
まったく語られていないということであった、
例えば、証言者の方々の証言には重要な部分がまったく語られてなく、数多くの矛盾点が多く残っていた、(その具体例については後述する)、
そして、たった数人の方の証言のみであり、それらの方々の都合のいい証言ばかりで客観性に乏しく、まさに極端に脚色され、真実は一切語られず隠されていた、
つまり、捏造された証言であった。
○ 業界で大きな影響力を持っていたマルサン商店の発言力が強く、当時から業界としてもマル
サン商店が日本初のプラモデルメーカーであると決定づけていた。
そして、マルサン商店の第一号のノーチラス号発売の昭和33年12月を起点として、プラモデルの歴史を作り上げ、例えば、「プラモデル60周年」などの祭り事を行なってきた、
つまり、今更そのマルサンが日本初のプラモデルメーカーであるという説を覆すことはできなくなってしまった、 そう、例えそれが捏造されたものであっても歴史の年表を正すことができなくなった。日本プラスチックの存在は業界にとっても不都合な存在になってしまった。
そして、仮にその事実を書こうとしても業界の圧力、妨害工作により書くことができなくなった、
〇 「マルサン説」はプロの模型ライターの方々が都合のいいように脚色して作り上げた、
一言で言うと、当初からマルサンが初と決めつけて物語を作り上げてしまった、
その典型的な事例がマルサンの歴史を書いた「マルサンの残像」だろう、これが後のマルサン物語に関しての教科書的な存在となり、後の模型ライターの方々の参考書となった、(もっとも、当初からその記事は怪しいとはされていたが)、そして、業界が言うところの「日本初のプラモデルのメーカーはマルサン商店である」 という捏造された定説を作り上げてしまった、
そもそも、その「マルサンの残像」の著者のH氏の取材に問題があった、証言をとるための取材者はたったの数人、それもマルサンの都合のいいように捏造された証言であった、
マルサン社長、金型職人のSさん、等、たったの3,4人、
マルサン社長は都合の悪い事実は全て口を閉ざして語らなかった、
金型職人のSさんは当時は新米職人で、特に当時の現場のこと会社内のこともよく知らなかった、しかし、いつの間にかノーチラス号の金型を作った伝説の金型職人として祭り上げられ、ご自分もいつの間にか伝説の金型職人として演じることになってしまった、
著者のH氏もそれらの証言は何か怪しいとは感じながらも、とにかくマルサンの物語を書き上げないといけないので見切り発車してしまった、そこがプロのライターとしての弱いところだろう、なんと言っても、多少の疑問点、怪しい点があってもとにかく書き上げないといけない、
時間の制約もある、そう、プロのライターは書き上げて執筆してナンボ、
しかし、そんなこと言い訳にはならない、結果的にそれが後の悪い教科書になってしまった、
ところが、真実のことが判明したにもかかわらず、また今頃になって「プラモデルの始まり
については諸説あり、今となってはその真相を究明するのは不可能に近い」とおっしゃっている、おそらく、また業界側のお人になられたのだろう、物書きとしての魂まで売ってしまった。
○ 模型ライターの方々の勉強不足、調査不足、
マルサン関係者の方々の証言を鵜呑みにしてしまった、ということ、
あのマルサン関係者の幼稚な証言が嘘だと気がつかなかった、
当時の時代背景、プラスチック業界などの歴史をほんの少しでも勉強していたら直ぐにあのような幼稚な証言が嘘だと気づいたはずであり、まったく初歩的なそして、基礎的な知識さえ持ち合わせをしていなく、勉強していないということ、
プロのライターの方々は今までも多くのプラモデルの歴史について執筆し、出版なさってこられたが、その内容は誤り、間違い、思い込みが多く、正確な歴史を書いた書籍というものはなかった、また、ライターの方々は今までの書籍を参考文献とし、ひどいものはコピペ編集したものまで現れた。
〇 ㈱日本プラスチックというメーカーの実態が掴めなかった、
㈱日本プラスチックは昭和31年10月に発売予告を日本模型新聞に載せている、
そう、「ゼロ戦」と「P51マスタング」の発売予告である、
しかし、その後それを発売したという広告も記事も載せていない、そしてそれ以降、日本プラスチックに関する広告、記事もない、だから実際にそれを発売したのかどうかはわからない、
そもそも、日本プラスチックというメーカーが実際に存在していたのかどうかも不明であった、
なぜなら、日本プラスチックの住所であった「布施市長堂2-90」という場所には存在しないからである、つまり、会社の居所さえも不明であった、まさに、㈱日本プラスチックというメーカーは当時からその名は知られていても、その実態を知る人はほとんどいなかった、
今までも、マニア、研究家の方々が㈱日本プラスチックというメーカーの解明に努められてこられたが、それが実ることはなかった、もはや、解明することは不可能とさえ言われてきた、
ただ、確認されていた製品はすでに存在していた、それは㈱日本プラスチックが発売したゴム動力の「原子力潜水艦ノーチラス号」の現物のキットである、それは何個も確認されており、現にマニアの方々がコレクションの一つとして保管されている、
もちろん、我が「模型探偵団」においてもその完成品を入手している、
(コレクターのお方からいただいた画像)
つまり、㈱日本プラスチックはすでに当初から存在していたことは間違いのない事実だったのである、それらの事実が無視され、まさにマルサン商店がプラスチックモデルの一番手であるがごとく脚色されてマルサン伝説、マルサン物語等の捏造された定説が出来上がってしまったのであった、
○ ㈱日本プラスチックはすでにその名は知られていた、
当時から日本初のプラスチックモデルメーカーはマルサン商店ではなく、日本プラスチックであると業界内では知られていた、その根拠として、当時、日本模型新聞の社友であった火星人さん(大阪十三の火星模型店店主)は、昭和36年10月号の日本模型新聞紙上で「マルサン商店」のことを痛烈に批判していた、
そう、「プラスチックモデルの一番手はマルサンではなく、大阪布施市の日本プラスチックである」と、同時にプラモデルの商標権のことについてもマルサンを批判していたのである、
その件については、「日本の模型業界七十五年史)にも記載されている、
なぜ火星人さんがそこまでして日本模型新聞紙上で断言し批判したのか、そのことについては「㈱日本プラスチックの謎に迫る」にて書いている、
そして、火星人さんはなおかつ昭和47年3月6日の模型新聞紙上でも、マルサンのノーチラス号の前に大阪の某メーカーがノーチラス号を発売した、と書いている、
(昭和47年3月6日 日本模型新聞 ㈱ジートッププレス監修済み)
この記事の中で、(単品ではマルサンより前に大阪の今はなき某メーカーから潜水艦が
出されていた頃)、とあるのは、日本プラスチックのノーチラス号のことである、
これらの資料等からもマルサン商店よりも前に日本プラスチックが先にプラスチックモデルを発売したのは明らかだったのである。
つまり、㈱日本プラスチックの存在は知られていたが、その実態が不明でありプラモデルの歴史からは無視され、マルサン商店だけが採り上げられた、
それは、和工樹脂でも同じことが言える、和工樹脂もその実態が掴めなかったのでその歴史から無視されてしまった、実は、マルサン商店はその和工樹脂のことも全て知っていた、
しかし、その和工樹脂の正体を明かすとマルサンが日本初だと言えなくなるので隠していた、
○ そもそもがマルサン商店の企んだこと、
マルサン商店の基本営業姿勢はハッタリとパクリであった、
とにかくマルサン商店が日本初のプラモデルメーカーにしたかった、だから、あのようなノーチラス号の発売広告を出した、日本プラスチックと和工樹脂を取り込み、あたかも自社が日本初と称してハッタリをかまし堂々と広告を出した、その後も業界における影響力を利用してマルサンが日本初ということを強引に定着させた、
そして、業界もそれを「定説」としてしまった、
つまり、マルサンを基準として業界も祭り事を行ってきた、そう、「プラモデル何周年」とか、
もちろん、「プラモデルの歴史」というものもちゃんと作らなければならない、
マルサンを基準としてプラモデルの歴史を作り上げてきた、
もう今更、プラモデルの歴史というものを業界として変えることは絶対に出来ない、
そう、今まで業界がやってきたことが全て否定されてしまうのである。
以上が今まで捏造された「マルサン物語」が伝えられてきた事由である、
そこで、㈱日本プラスチックというメーカーの実態を解明し、そのキット等が市場に流通して
いたことを立証できればいい、ということで追跡調査を開始した、
ただ今となっては、日本プラスチックを突き止め解明することは非常に困難なことであった、
すでに60数年を経過し、しかも当時でさえあまり知られなかったメーカーである、現在残されている資料なども極めて少ない、当時を知る方々もほとんど存在しないだろう、
しかし、今やらなければこの先永遠にその謎は解明できないだろう、
繰り返すが、
この先永遠に捏造された「マルサン伝説」というものが語り継がれていくのである、たかが、
プラスチックモデルの歴史であるが、捏造された歴史がそのまま語り継がれてはいけない、
どんな歴史にせよ、正しい真の歴史が語り継がれていかなければならないのである。
実を言うと、あと数か月この解明作業が遅れていたら、それこそ永遠に解明することはできなかった、残された最後のチャンスだったのである、そのことは、「㈱日本プラスチックの謎に迫る」を読んでいただきたい、
次は、本題の「真実のプラスチックモデルの歴史」について簡単に述べてみよう、
○ 日本で初めてプラスチックモデルを開発し誕生させたのは模型飛行機仲間達であった、
その仲間達は5、6人ほどいたと思われる、
その中心人物が濱田貞雄、亨の兄弟、石村栄三、らであった、
大阪にはいろいろな模型飛行機クラブが存在していたが、濱田貞雄らは模型飛行機クラブの「ピッチクラブ」に所属していた、
大阪地区では定期的に模型飛行機大会を開催し、Uコン機、ラジコン機等で盛り上がっていた、
その中で特に有名な方はOSエンジンの小川社長であり、アメリカ人の参加者も多くいたという、濱田貞雄と石村栄三が制作した模型飛行機は優秀で注目を浴びていたという、
(OSエンジンの小川社長の著書「我が模型人生」による)
濱田ら仲間達はプラスチックという素材に注目しプラ製の玩具製造を計画する、時は昭和28年頃であったという、
場所は布施駅から歩いて5分のところにある「大阪化学研究所」であった、
その「大阪化学研究所」の工場を間借りして濱田らは機械類を持ち込んでプラ製の玩具製造を始める、その「大阪化学研究所」の内田義勇さんは合成樹脂に関する専門家であった(阪大の応用化学専攻)、濱田兄弟らにはその内田さんが合成樹脂に関してはいろいろと技術指導を行っていたという、
ちょうどその頃、昭和27年、その「大阪化学研究所」の斜め向かいでは宮本順三さんが射出成形機などを導入してプラスチック製の「グリコのおまけ玩具」の製造を開始していた、
当時から布施市(東大阪)界隈はプラスチック産業も盛んな地域であった、昭和30年までには
金型製造、射出成形機などを導入しプラスチック製品の製造も盛んであった、
それは、戦前から東大阪は日本でも有数の町工場が存在し、しかも戦争でも空襲の被害がほとんどないこともその理由であった、
濱田兄弟らが「大阪化学研究所」内でプラ製の玩具の製造発売を行っていた昭和30年頃、
アメリカレベル社のプラモデルの下請け製造も開始する、レベル社では世界各地での現地生産も開始していた、その一つが布施市にあった濱田兄弟らの日本プラスチックであった、
そのために布施市の隣の河内市(現東大阪市)に工場を建設、
そこでは100人ほどの従業員を使ってレベル社の下請け製造を行なっていた、
○日本プラスチックは昭和31年2月、正式に㈱日本プラスチックという会社名で登記設立する、登記簿上の代表取締役は石村栄三、取締役が濱田貞雄、
登記上の本店の住所が、(大阪府河内市大字若江南722番地)これは工場の住所である、
当時から今もその住所敷地は「大東化成」になっているが、日本プラスチックのその工場も
その大東化成の敷地内にあった、
登記の設立目的が「合成樹脂製造加工販売並びに輸出」 となっている、
レベル社のプラモデルを製造するかたわら日本プラスチックは昭和31年10月に「ゼロ戦」と
「ムスタングP51」のプラモデルを製造発売する、(日本模型新聞にその発売予告広告あり)
ただ、ゼロ戦の発売証言は何件もあるが、ムスタングの証言は今のところ1件くらいしかない、
そのゼロ戦の金型は大阪四ツ橋にあった「電気科学館」に寄贈されたが今は現存しない、
また、火星人(大阪十三で火星模型店の店主であり、日本模型新聞の社友)が昭和32年春に模型店を開業する時に大阪松屋町の問屋で日本プラスチックのゼロ戦とノーチラス号を仕入れたという、
○ 昭和31年頃、濱田兄弟の兄である亨さんは東京へ進出し「ハマライト化学」を設立、
その翌年、昭和32年春頃、日本プラスチックはゴム動力の「原子力潜水艦ノーチラス号」を
発売する、この件については日本模型新聞の社友であった火星人さんが当時の記事で書いている、またこのノーチラス号は全国でも現物が確認されキット其の物もコレクターの方々の間でも保管されている、また、我が模型探偵団でもその完成品を所有している、
○ 濱田兄の亨さんの「ハマライト化学」がプラスチック玩具などの製造を始める、
ピストル玩具から自動車までいろいろとあった、
そのプラ製玩具の金型はその後、模型メーカーなどに流用された、
タミヤ模型のベビーレーサー、三和模型のピストル等々、
特にタミヤの「ベビーレーサー」、「ベビートラック」はタミヤの窮地を救ったことで有名、
○ 昭和34年8月、日本プラスチックは国内向けに科学玩具「フライングヘリコプター」を 発売、
これを最後にその後すぐに濱田貞雄は㈱日本プラスチックの会社を整理して東京へ、
兄の亨さんの「ハマライト化学」と合流、
昭和35年5月頃、濱田貞雄は、今のOS工業を設立、
「ハマライト化学」はあくまでも下請けに徹し、自社ブランドで製品を発売することはなかった、多くの玩具、プラ模型メーカーに金型、製品を下請けとして供給していた、プラモデル業界の黎明期において大きな役割をはたしていたと思われる、
そのハマライト化学の濱田亨はその後、「ゲルマニューム」の研究に転身なさったようである。
○ 一方、東の東京では「和工樹脂」が車のプラモデル化を目指して開発を進めていた、
昭和32年後期、東京練馬の関孝太郎が舶来のプラモデルを見て国産の車のプラモデル化を計画していた、それが、ニッサンの「ダットサン1000」であった、
ニッサンのデザイナーが図面を引き、金型から射出成形まで行ったのが「日精樹脂工業」であった、昭和33年10月頃、国内で販売開始、もちろん日産の販促品にもなった、
それに気づいたマルサン商店は2ヶ月後に日本初と称して「ノーチラス号」の発売を予定していたために、それが市場に流れるのを防止する必要があった、
つまり、それもマルサン商店の製品と称して「ダットサン1000」を発売する必要があった、
マルサン商店は、その和工樹脂の「ダットサン1000」のプラモデルをうちで面倒みるから納入してくれないかと打診、
「和工樹脂」は営業活動が省け売上も伸びるので即応諾、マルサン商店にも供給を開始する、
マルサン商店ではすでに開発を進めていた「ノーチラス号」がやっと完成したので、12月中旬頃に自社製品の「ノーチラス号」と同時にその和工製品の「ダットサン1000」も発売、
和工製品の「ダットサン1000」の箱にマルサンのシールを貼り自社製品として、ノーチラス号と同時発売した、その同時発売したものにあと2点、それが「哨戒水雷艇」、「ストラトジェット爆撃機」であり、つまり、合計4点を同時発売した、
ただ、その4点のうちマルサンが製造したものは「ノーチラス号」の1点のみであり、「哨戒水雷艇」、「ストラトジェット爆撃機」も他のメーカーが製造したものと思われる、
つまり、疑惑が発生するのがそのマルサンが同時発売した「哨戒水雷艇」と「ストラトジェット爆撃機」である、特に「哨戒水雷艇」、これもレベル社のコピーである、この「哨戒水雷艇」についても、マルサンは固く口を閉じていた、このプラモデルはノーチラス号よりも金型も複雑で
難しい、ノーチラス号でも金型作りに四苦八苦していたマルサンがどうやって金型を作ったのか、いや、どこから金型を流用したのか、
実は、そのことが「㈱日本プラスチック」が突然消滅したことと関係があると推察している、
また、㈱日本プラスチックの社長であった石村栄三さんはすでに11年ほど前に亡くなられているが、その息子さんも判明していることはこれも「日本プラスチックの謎に迫る」で紹介している、
以上が、まだ公開できない部分もあるが、とりあえずは公開できることである。