統一教会員KY 今日の聖書 -2ページ目

ピリピ 2:6


キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、

かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、

おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。

それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった。

それは、イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものなど、あらゆるものがひざをかがめ、

また、あらゆる舌が、「イエス・キリストは主である」と告白して、栄光を父なる神に帰するためである。



黙示録 2:10

死に至るまで忠実であれ。そうすれば、いのちの冠を与えよう。


マタイ 7:7

求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。

門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。

すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである。

あなたがたのうちで、自分の子がパンを求めるのに、石を与える者があろうか。

魚を求めるのに、へびを与える者があろうか。

このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り物をすることを知っているとすれば、

天にいますあなたがたの父はなおさら、求めてくる者に良いものを下さらないことがあろうか。

だから、何事でも人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ。

これが律法であり預言者である。




論語 1-06

先生がいわれた、

「若者よ。

家庭では孝行、外では悌順、慎んで誠実にしたうえ、だれでも広く愛して仁の人に親しめ。

そのようにしてなお余裕があれば、そこで書物を学ぶことだ」



コリント2 1:3

ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神、あわれみ深き父、慰めに満ちたる神。

神は、いかなる患難の中にいる時でもわたしたちを慰めて下さり、

また、わたしたち自身も、神に慰めていただくその慰めをもって、

あらゆる患難の中にある人々を慰めることができるようにして下さるのである。

それは、キリストの苦難がわたしたちに満ちあふれているように、

わたしたちの受ける慰めもまた、キリストによって満ちあふれているからである。

わたしたちが患難に会うなら、それはあなたがたの慰めと救とのためであり、

慰めを受けるなら、それはあなたがたの慰めのためであって、

その慰めは、わたしたちが受けているのと同じ苦難に耐えさせる力となるのである。



ky「一週間お疲れ様でしたm(u_u)m暑さに負けず頑張りましょう!」

コリント1 9:24


あなたがたは知らないのか。

競技場で走る者は、みな走りはするが、賞を得る者はひとりだけである。

あなたがたも、賞を得るように走りなさい。

しかし、すべて競技をする者は、何ごとにも節制をする。

彼らは朽ちる冠を得るためにそうするが、わたしたちは朽ちない冠を得るためにそうするのである。

そこで、わたしは目標のはっきりしないような走り方をせず、空を打つような拳闘はしない。

すなわち、自分のからだを打ちたたいて服従させるのである。

そうしないと、ほかの人に宣べ伝えておきながら、自分は失格者になるかも知れない。



ky「今日もお元気で(^-^)/」

ネヘミヤ記 1:8

『もしあなたがたが罪を犯すならば、わたしはあなたがたを、もろもろの民の間に散らす。

しかし、あなたがたがわたしに立ち返り、わたしの戒めを守って、これを行うならば、

たといあなたがたのうちの散らされた者が、天の果にいても、わたしはそこから彼らを集め、

わたしの名を住まわせるために選んだ所に連れて来る』




マタイ 5:43

『隣り人を愛し、敵を憎め』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。

しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。

こうして、天にいますあなたがたの父の子となるためである。

天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、

正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして下さるからである。

あなたがたが自分を愛する者を愛したからとて、なんの報いがあろうか。

そのようなことは取税人でもするではないか。

兄弟だけにあいさつをしたからとて、なんのすぐれた事をしているだろうか。

そのようなことは異邦人でもしているではないか。

それだから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。




ky「水分補給、だいじです( ̄∇ ̄+)

ペテロⅠ 3:17

善をおこなって苦しむことは―それが神の御旨であれば―悪をおこなって苦しむよりも、まさっている。

キリストも、あなたがたを神に近づけようとして、自らは義なるかたであるのに、

不義なる人々のために、ひとたび罪のゆえに死なれた。

ただし、肉においては殺されたが、霊においては生かされたのである。

こうして、彼は獄に捕われている霊どものところに下って行き、宣べ伝えることをされた。

これらの霊というのは、むかしノアの箱舟が造られていた間、

神が寛容をもって待っておられたのに従わなかった者どものことである。

その箱舟に乗り込み、水を経て救われたのは、わずかに八名だけであった。

この水はバプテスマを象徴するものであって、今やあなたがたをも救うのである。

それは、イエス・キリストの復活によるのであって、からだの汚れを除くことではなく、

明らかな良心を神に願い求めることである。

キリストは天に上って神の右に座し、天使たちともろもろの権威、権力を従えておられるのである。




コリントⅠ 15:22

アダムにあってすべての人が死んでいるのと同じように、

キリストにあってすべての人が生かされるのである。

ただ、各自はそれぞれの順序に従わねばならない。最初はキリスト、

次に、主の来臨に際してキリストに属する者たち、

それから終末となって、その時に、キリストはすべての君たち、

すべての権威と権力とを打ち滅ぼして、国を父なる神に渡されるのである。

なぜなら、キリストはあらゆる敵をその足もとに置く時までは、支配を続けることになっているからである。

最後の敵として滅ぼされるのが、死である。