親子の気質、二人の課題によって、

これはやり過ぎ、これはやらなさすぎという線引きはないです。

 

 

子どもの望み通りに手をかけすぎたからって、

子どもがダメになるなんてことは基本的にありません。
 

だって、愛されていることを体感として実感できるから。

「わがままになるかどうか」は全然問題なし。

むしろ、愛情を感じることができて、心は安定します。

 

ただ、

 

要求されていないのに、やりすぎるのは、子どもの可能性を奪ってしまうことになります。

 

 

良かれと思って手を出していたことが、

「自分でやりたかったのに!」と子どもに怒られるいうはよくありますよね。

 

時には、こっちの都合で手を出してしまったりもしますし。

 

手を出した結果、成功したとしても、

子どものチャンスを奪っていることに私達は気づけていないことの方が多いです。
 

手を出さなかった結果、失敗したり、悲しい思いをしたり、
他の面倒ごとが起こるのを受け止める覚悟を持てていないとも言えます。

 

 

 

牛乳をこぼして欲しくないから、
牛乳パックからコップに移す作業を子どもにはさせない。

「やりたい」って言うからさせて、絨毯にこぼすと、

「ほらぁ~やっぱり」ってイライラしながら、掃除をする。

 

うちのよくある光景です。

これじゃあ、牛乳パックでコップに入れるという作業の微調整をできるようになるわけはなく、

「こぼしたら怒られるからやらない」って、やらなくなってしまいます。

 

いざ、こっちの都合で「自分でできるでしょ!やって!」と言っても、

やってくれなかったり・・・

 

たかだか、牛乳パックからコップに入れると言う作業ですが、

子どもから、チャレンジの気持ちを奪っていました。

 

「例え失敗しても成功しても、チャレンジの心は大切にしてやりたい」と

しっかり思ってるんです。きっと、どの親御さんも同じだと思うんです。

 

でも、この牛乳の話と同じようなことを

日常のあちこちで、私たちは意識しないうちにやってしまっていると思うんです。

 

 

 

 

「正しいか正しくないか」では、人は低迷し、「やりたい!」を自覚すると、とことん飛躍する

 

人は、

自分の可能性にチャレンジをして生きていくことに喜びを感じるから。

 

大人になってチャレンジをしない人は多いです。

生活があるし、失敗したら家族が大変だし・・・という気持ちは

誰もが痛いほどよくわかりますよね。

 

 

子育てに関しても、

「子供をきちんと育てなくちゃ!」という思いから、

正しいことを教えていかなくちゃと気負っている私たち親です。

 

 

でも、

そもそも、正しいの線引きが曖昧ですよね。

社会的に”そう”だからってこともあれば、
人によっても価値観はバラバラで。



私は、親が私に見せてきてくれたり、学校や経験から教えてもらった価値観や倫理観が
真っ当で、正しいと思い込んでいました。

この歳になってから、正しいと思い込んでいた価値観がどんどん破壊されていっているのですが、
それが面白くもあります。

 

子どもに説教じみたことを言いながら、「あれっ?正解ってなんだ?」って思うことが

多々ありました。

 

私の正義的観念の押し付けだったな・・・って、今では思います。

 

 

 

やり過ぎは子どもの可能性を奪うってことをちゃんとわかっていれば、

子どもの要求に応じていくら与えても、子どもに悪影響はあり得ません。

 

 

わからないうちは、探るしかなくて、
探っているうちは、親子のチャレンジ。

その間は、子どもに悲しい気持ちを抱かせるかもしれないし、

親自身も猛烈に反省するかもしれないし。

 

 

でも、その過程自体が必要なものだから、

反省する必要はなくて、「調整」と捉えよう!

 

 

親子のバランスがとれるようになったら、
その調整期間の葛藤は、問題ではなくなるから!