今朝外に出た瞬間、金木犀の香りがあちこちから漂った。
昨日まではなかった。昨夜までは。

世田谷から地元へ帰ってきたら、地元でもまた、香っていた。
正確に秋を告げる木々。花々。
今年も、私はここに立っている。
今年は、私はここに立っている。
深呼吸。



普段、頭の中で言葉が溢れて止まらない私だけど、実は話すことは全く得意ではない。
思えば、私の言葉というのは、多くは音楽を聴いていると溢れて来る。

会話を求められたり、説明を求められたりしても、口頭で話すと、その多くは支離滅裂。
何故だろう。


音楽が奏でられていることは、生きていくのに必要不可欠なものではあると思けれど、静寂もまた、ひとつの音楽。

言葉もまた、間が肝心で、言葉を選び、沈黙してる間も、私にとっては大切な言葉。

私の場合伝えたいことがあればあるほど、沈黙は多くなる。
より確実に、想いを表す言葉を選んでしまう。
伝えたいこと、感じさせたいことを、音楽が鳴るように響かせてくれる言葉はないものか、と。
その結果出てきた言葉が必ずしも正確とは限らないから、困ったものなのだけれど…

そんなとき、多くのひとは、私が口を閉じたのだと思ってしまうだろうし、どうしたの?と言われたりしてしまう。
相手に、ハテナという顔をさせてしまうことほど、悲しいことはない。


ある人が教えてくれた、村上春樹の言う、「もしも僕らの言葉がウィスキーだったなら」という感覚。
私はとてもとても共感してしまう。

ウィスキーだってもちろん、好き嫌いはあるのだけれど、私の言葉が、ウィスキーを美味しく頂けるように、そして心地良い酔いを運んできてくれるように、目の前にいる人に響いてくれたら。

話すことは苦手です。
だから、読んでください。
なんて、勝手かな。
自由なので。お好きに。


そんな私が、生まれて初めて、「言葉が通じた」と思ったのです、三年前のあの日。
想いの強過ぎる私の、重過ぎるくらい拙い言葉が、初めてきちんと通じている、と。
そして、それは変わっていなかった。
まるでカウンセリングを受けているようだ、とあのときも今も思ったものだ。
それはまた、彼も、間を持っていたからだろうか。音楽という言葉を。


さて。
そろそろ、書き出せるかな。。


タイトルは、武満徹さんの本から。
その言葉を読んだとき、まさにこれは音楽だと身体の芯が震えたので。

仏像のように静寂で、でもチャイコフスキーのようにドラマチックな、ショパンのように切なく、バッハのように正確な言葉。

話せなくても良い、
せめてその欠片でも、書けたら素敵だな。