どうやら人以上にモノを処分することが好きな僕は、モノへの執着も激しい。

浪費家だと思っていたがどうやらそんなこともないようで、収集しているレコードと本で欲求のことは足りる。単価が安い趣味だ。(しかも収集というより探索に近い趣味なので中古だらけだ。)

なんとなく買ってしまう機材も今年に入りどんどん売られていく。

完全にソフトと録音に移行したため不必要なのだ。機材愛はないようで囲まれたいとも思わない。

モノへの執着が量より質になるのは、いままでの何百万という浪費から得たもので、なぜかレコードを買うペースが落ちたことに不安になっていた日々をバカらしくおもえる最近。

いい音楽はあせらずともタイミングや雰囲気、気分で変わってくるから欲しい時に買えばいいし、別に局部的な音楽が好きなわけでもないから、人に必要とされる音楽は待っていてさえくれる。


必要以上のコンプレックスを抱えて、それを他人のアーカイヴィングで解消しようとし、さらにコンプレックスが高まる。どうやらこれが僕についているカルマのようで、周りをみてもそんなカルマに追われる人間が2人いる。完全に同類のカルマだし、そんなこともあってか必死になって話あうのが友情に結びついているようでもある。

この音楽がヤバイとかこの絵がヤバイとかこの思想がヤバイとかこのセンスがヤバイとか。

いまのところ解決法は自分で想像することに移行することにあるのはわかっているんだけれど、そうゆうわけにもいかない。なんせカルマだ。

嫉妬が進歩につながっているとおもいこんでいるこのコンプレックスは振り払おうとすると、自己の簡易さにきずかされるわけで、そんな恐ろしいことはない。

人によってアーカイヴィング化された情報は本やレコードやデザインに現れるが精神のアーカイヴィング化は今のとこ地上にはない。人との思い出がそれに近いものがあると横尾忠則やスパイクジョーンズが言っていたけど、そうも思えないのは僕には人を除き見る才能がないからだろうか。

一旦、思考された発言ばかりが世にはばかる。

思考されたものは精神とは別のところにあって、要はヒラメキではなく直感の部分を人から感じとれることができれば、それはその人にアーカイヴィング化された精神としてこちら側もとらえることができる。

たださみしいかな、人は直感を疑うことで進歩(進むという表現であっているのか?)を続けている。

科学はヒラメキの産物なのかとおもう。