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自分は2年前くらいからakarmaという名前を使ったりするようになったのですが、友人にakarmaって何?みたいなことを、最近2回聞かれたのでショックを受けつつかるく説明。


とりあえず、皆さん御存知karma。ヤマハのシンセに同名(読みは違う)のものがあったが、あれは誰かの宿命を背負ったシンセだったのだろうか?内部シンセシスが自らの行為に反映して、なにかの形で返ってくる、karmaの法則的シンセだったのだろうか。恐ろしいシンセが出回ったものだ。紅色だし。誰が買うんだよ。同時期でyamahaならmotif買うだろ。そもそもyamahaを・・・・ごちゃごちゃ・・・・・・・。誤解されたくないので一応、自分はrolandの犬ではない。


karmaの話。


インドのヴェーダ哲学の根底にある思想の一つに"karmaの法則"があります。(中学で習った記憶があるのだが、歴史とかだったのかな・・・。厨房に理解しろっていって理解してる厨房はろくでもないヤツだろう。)

karma=業と略されているのが有名だけれど、これは仏典なんかの仏教よりの解釈。(ヒンドゥーもかな)

サンスクリット語からの直訳では”行為”とか”宿命”ってことになる。だからといってkarmaの法則=宿命の法則ってことでもない。言葉の意味的におかしくはなってくる。

そもそもサンスクリット語はインドの古語。現在は使われることがないそうですが、仏教やヒンドゥーの聖典はサンスクリットで口伝され書き記されたそうです。

あとヴェーダ哲学なんですが、そもそもヴェーダとはなにかと。これはとてもじゃないけど本一冊できてしまいます。知であり、神であり、宇宙であり、世界最古の聖典の名前であり。実は自分自身整理できてないかんじなので触れないでおきます。勝手に調べろ。


karmaの法則=過去(世)においてなした行為は、善業にせよ悪業にせよ、いずれ自分に返ってくるというものですね。過去を(世)と書いたのは理由があって、一般的にいう(あの世)は過去と現在と未来がたたみこまれているため、過去を(世)という固定された表現で表しておかないと不具合が生じてきます。文字で書くとわけわからん。

karmaは個人的解釈では、この世に存在?しますが、例えば死んだジーさんのkarmaが自分に宿ります。これは血とか家族とかそうゆう問題ではなくて、偶然でもなくkarmaさえ共有なのです。だれだ俺は。

自分だけを因果応報の法則というのが一般的解釈ですが、そんなに甘いもんじゃありません。あなたのkarmaを生み出しているのは、となりのあ・い・つ・かもしれないってことです。


karmaはこんな感じですね。

本題akarmaです。

karmaの種類の一種とされるものです。

最終的に解脱に導くkarmaのことを指します。解脱とは苦しみ多き輪廻(生まれ変わり)の世界からの脱却の事です。

完全に現世を放棄し、行為に対する欲望を滅した状態で、ある行為がなされる場合それがakarmaとなります。セックスのことではありませんよ。

この欲をもたない行いは僧の世界でも非常に高い段階とされています。悟りへの一歩といったところかな。

悟りに到達するとその人のすべての義務はなくなります。が、karmaだけは残るのです。その場合残ったkarmaはakarmaとして認識されます。このakarmaは、そのkarmaが経験?し終わらば、それ以上新たなkarmaは生じないのです。その結果すべてのkarmaが消滅し、最終の解脱へと導かれるわけです。それ以降に待ち受けるのは、宇宙規模の話になってしまうので、これくらいにします。


ちなみにakarmaの対義をvikarmaと呼びます。

vikarmaは、経験することによって、さらに輪廻にしばられてしまう種類のkarmaの事をさします。

熱心な宗教国以外の国の人間はvikarmaと付き合ってることがおおいでしょうね。残念ながら。

ヴィーダ哲学の思想はこの恐ろしい輪廻から世界を脱却しようというものでもあるようです。

現世にしかみない西洋的感覚に犯せれている日本国では、受け入れなれない思想なのかもしれませんね。

宗教という言葉がマイナスに働いてしまう、この国の感覚は相当イカレテイル。

「宗教だよ。」の一言でかたずけるなと言いたい。

宗教のとらえ方が思想ではなく団体になっているのもおかしい。

「宗教だよ。」の一言と「アキバ系だよ。」の一言に同一的使用感がある。心理に迫らず上っ面なめる教育の影響なのか、マスコミの影響なのか、結局なにも理解してない身近な親や先人の影響なのか。




akarmaでした。