スピード感。まー速度。目で確認して判断するまでのスピードとそこにある時間軸の速度。
速度は個々の能力?でどうにでもなるんだなーと確信しました。
軸は存在しないわけで、それぞれが速度を共有してしまっているから軸が存在してしまっているだけ。
スピードがそこに生まれるとさまざまな変化はもちろんあって、トマトが腐ったり、空気が移動したり。
極論でいえばトマトは腐らないんじゃないかということでもあって、もぎ取った瞬間(表現矛盾、すいません)にくさるものだということ。
「時間やスピードを視覚的にかんじるものが溢れている。」とかそんな生ぬるいもんじゃなくて、時間やスピード感を共有して安心してしまっていることに対しての危機感が必要なのだなーと。
脳や体の動き、働きもいま以上に発展?できるんです。
言葉を使用してのコミニュケーションや体をつかった性行のスピードが変化するだけで世の中変わる。
思考の転換の速度ではなくそこにながれる速度の”アリカタ”も見直すだけ。
脳で体を操る感覚を一つ一つ見直すと恐ろしい速度で物事を動かしているのがわかる。
それが無意識で無責任なのが速度共有につながっているのかと。
もちろん早ければいいのではなくてそれぞれの速度がコントロールできるのが目的なのはいうまでもないんですが。
それにしても現段階では体の成長、退化と共に精神が変化しているのは確かで、精神ありきの体ではないことはわかるんだけれども、精神が体にやどって体と共に変化していく事実があるのが不思議でならないのです。
体の意味ですね。
精神解放とかそんなんじゃなくて体と精神の関係を考えて体が退化しきるまで付き合うほうがおもしろいんじゃないかと。
体が退化してからの精神変化。精神が退化してからの体の変化。
精神は生きつずけるとか、生まれ変わるとかいわれるけども、精神いきてる奴なんて数えるほどしかいないはず。体が煩悩のかたまりとかいう仏教じゃないけど、体にやどった精神は共有速度を感じて死んでしまう。
共有速度って言葉があるのか知らないけど危険だよーん。