新規開店のカフェの割に、人の入りは悪かった。
テヒョンも詳しくは知らないが、普通オープンともなれば店頭で割引券などを配るのではないだろうか?
でも、この店はそんなプロモーション的なことは何もしなかった。まるっきり儲けることは考えていないみたいだ。金を稼ぐためというより、カフェを開くことが目的みたいな。
店員も自分しかいない。べセルという、おかしな名前を名乗る店長と二人きりで、テヒョンは一日を過ごした。
テーブルを拭いて、紙ナプキンやシュガーポットの位置を直しているテヒョンの肩を、べセルがポン、と叩いた。
「少し休憩しよう」
コーヒーを用意して、テーブルで向かい合った。
テヒョンは少しもじもじした。何故か店長と目が合うと落ち着かない。店長の目は、テヒョンの奥深いところまで覗き込むように見えた。自分の秘密、罪。全てをほじくり返して「これはなに?」と広げて見せてきそうな、そんな感じ。
「君はまじめだな。真面目なのは良いことだ。」
「そんな事、今まで言われた事無いですよ。」
べセルは笑いもせず、コーヒーを飲んでいる。
「私は不真面目な人間は嫌いなんだ。不真面目だとだらしがないから、嘘をつく。だから嫌いだ。」
「・・・真面目で、嘘をつく人もいるかも。」
テヒョンは小声でもごもごと言った。
「うん?何と言った?」
「いや、何でもないです。嘘をつく人間は僕も嫌いです。」
店長はにっこりと笑った。
「それは良かった。」
テヒョンは心の中で呟いた。
― 本当に嫌いですよ?嘘をつく人間は。僕も含めてね。
テヒョンは自分の心臓がギリギリと痛んでいるような気がした。自身の罪と嘘が見えない手で自分の心臓を鷲掴みにしているのかもしれない。
― でも、だって・・・・どうしたら良かったの?
テヒョンは生まれた時から貧乏だった。
父親は日雇いで働いていたが、稼いだ金は片っ端から飲み代に消えた。高校卒業後、自動車工場で働いていたらしいが、酒癖が悪く、二日酔いで遅刻して出勤したり、欠勤したりですぐにクビになってしまった。その後も職を転々としたが、酒癖のせいで、どの職も長続きしなかったし、仕事が上手くいかない分、余計に酒にのめり込んだので益々定職に就くのは難しくなった。
母親がなぜこんなろくでなしの男と付き合ったのか不思議でしょうがない。しかし、若い頃の父親は随分とモテたらしい。テヒョンの美貌は父親譲りなのだ。そう思うと、テヒョンは自分の整った顔も憎らしくなる。
ともかく、母親はろくでなしと付き合って、自分を身籠ったために結婚せざるなくなってしまった。そして、自分と子供が生きていくために身を削って働いた。朝も昼も夜も働いた。
物心ついたテヒョンが覚えている両親の姿は、常に争っている姿だ。
酔った父は母を殴り、怖がって泣く自分のことも殴った。自分を殴ると母親が悲鳴をあげて泣き叫ぶので、それがうるさいと、さらに酷く母親を殴った。それで、テヒョンは泣きたくなると外に飛び出して、声を殺して泣いた。
小学校、中学校ともテヒョンには友達がいなかった。アルコール依存症の父と常にボロボロの服を着た母を両親に持つテヒョンと自分の子供を遊ばせようとする親はいなかったし、テヒョン自身も、まともな家庭を持たない自分を引け目に感じていたので、クラスの仲間に自ら入って行こうとはしなかった。
そんな訳で、テヒョンはいつも独りぼっちだった。
中学一年の時だった。いつものように、父に殴られて傷ついた身体を抱えて街を彷徨っていた時、気が付いたらゴミの集積場に来ていた。
物置の横に背が取れた椅子が置いてあって、何となくそこに座った。ひどい匂いがするし、清潔な場所でも無かったが、何故か居心地良く感じた。ふと、視線を感じると物置から顔を出している少年がいて、テヒョンは慌てて立ち上がった。始めは鋭い目つきだったが、テヒョンの慌てた様子に和んだのか、ふっと笑って手招きした。
「顔、殴られたのか?来いよ。消毒してやる。」
それ以来、テヒョンは毎日のように物置小屋を訪れた。
初めての友達。テヒョンにとって、ナムジュンは奇跡のような存在だった。
友達も初めてなら、自分の話を真剣に聞いてくれる相手もまた初めてだった。何より、ナムジュンも同じように思って、自分に感謝してくれるのがありがたかった。ナムジュンにとっても、一家離散以来初めて出来た友達だったから、本当の弟のようにテヒョンを大切に思っていたのだ。悩みを聞き、理解し、心配した。
雨の降る夜だった。
ナムジュンが何時ものように物置小屋でキャンプ用のランプの仄かな明りを頼りに、図書館から借りた本を読んでいると、ドアがゴツゴツとノックされた。
「テヒョンあいつ、こんな雨の日にまでやって来るのかよ?」
口ではそう言いつつも、嬉しそうにドアを開けると、ふわっと漂うようにしてテヒョンが立っていた。大雨なのに傘もささずにずぶ濡れになっている。
その顔は、無表情を通り越して死人のように感情を消していて、ナムジュンは驚いて目を丸くした。
「どうしたんだ、お前!まさか、幽霊じゃないよな。」
ナムジュンは急いでテヒョンを物置小屋に入れると、身体を拭くようにとテヒョンにタオルを渡した。テヒョンはナムジュンの言葉が頭に入らないようで、受け取ったタオルをそのまま手に持って、ずぶ濡れの身体を両手で抱えるようにして床に座った。
「何があったんだ?とりあえず着替えて・・・」
「親父を殺した。」
薄い物置の壁に叩きつけられる、激しい雨音が二人を包んだ。物置も、キャンプ用のランプも強い雨音の中ではあまりにも頼りない感じがした。
― まるで、二人で嵐の中を漂流しているみたいだったな。
テヒョンは五年以上経った今でも、この瞬間を毎日思い出す。歩いている時、バイト中、朝起きた時、様々な瞬間に、この光景は何の前触れもなくテヒョンに襲い掛かってきた。
大雨の中を漂流する自分とナムジュン、そして血だまりの中で倒れている父。
どんどんと記憶のフラッシュバックが続く。
争う両親。父は母が必死に働いたなけなしの金を持ち出そうとしている。その金が無いとテヒョンの給食費が払えないのに。
母は必死に戦って、金を持つ父の手にかみついた。しかし酔った父はなぜか力が強かった。母を振り払い、逆らったことに腹を立てて散々に蹴った。蹴った上に、何を血迷ったのか、 焼酎の瓶を倒れた母親の頭の上にに振りかざしている。
「その時」の事はよく覚えていない。
自分がどう動いたのか、何を思ったのかわからない。まるで動画の早送りのように、自分の動きは記憶の中でカットされている。
母親が殺されかけた次のシーンは、血まみれの、割れた焼酎の瓶を片手に立ちつくす自分だ。
目の前で、腹から血を流して倒れる父を呆然と見下ろしながら・・。
母親が泣きながら、テヒョンから焼酎の瓶を奪って、自分の手で握りしめた。
「お前は何も見ていなかった。いいわね?」
警察は、自己防衛だったという母親の話を信じたようだった。父の家庭内暴力は町中が知っている話だったので、ごく簡単な事情聴取で話が終ってしまったのだ。母親が自ら自首しているので、それ以上調べる必要もなかったし、警察にとって貧乏人の家庭内殺人なんてどうでも良い案件のようだった。
テヒョンは警察に連れて行かれる母親を、ただ黙って見送り、そしてナムジュンの所に行った。ナムジュンの所に行って、それから警察に行くつもりだったのだ。母じゃない、自分がやったのだと言いに。
しかし、ナムジュンはそれを止めた。
「お母さんの気持ちを考えてやれ。」
「でも・・・」
「恐らく正当防衛と見なされるだろう。お母さんは罪を問われないよ。」
テヒョンは泣き出した。
「お母さんじゃないんだってば。」
「テヒョン、よく聞け。」
ナムジュンがテヒョンの肩を抱いて説得する。
「両親はお前を守る義務がある。なのに、今までお前は守られるどころか危害を加えられていた。いいか?お前は被害者なんだ。それに、お母さんは今お前のために行動しているのに、お前が台無しにしたらひどく悲しむはずだ。」
あれから5年経った。
母親はもういない、あの事件の後しばらくしてから病気で亡くなってしまった。働きすぎてボロボロに痛めつけられた身体は、風邪にすら耐えられなくなっていたらしい。もう少し我慢してくれれば自分が母の代わりに働いて、楽をさせてあげられたのに。そう思うとテヒョンは悔しくてならない。
苦しむ母を、父はもちろん、社会の誰も助けてはくれなかった。金が無いと立場も弱い。そして世間は立場の弱い人間には徹底的に冷たく意地悪だ。
テヒョンはそんな世間に仕返しをしたいと思っている。でも、どうやったらそれが出来るかわからない。
「いらっしゃい。」
べセルさんが、テヒョンをじっと見た。
「お客さんだよ。」
テヒョンは慌てて立ち上がって入り口に向かった。
「あ?ナムジュニヒョン!ジンヒョンも!」
ナムジュンが、子犬のような笑顔で喜ぶテヒョンの肩をぽんと叩いて店内に入った。
「洒落た店だな。イケメンだとこういう店で働けるのか。」
「就職祝いで来たよ。どう?新しい・・・」
ジンも笑顔でテヒョンに話かけたが、何故か言葉が途中で途切れた。不思議に思ってテヒョンがジンの視線を追うと、そこにはさっきまでと同じ場所に座るべセル店長がいた。
ジンは顔を背けるようにして視線を逸らすと、テヒョンが勧めるテーブルに着いた。