翌日、僕はナムジュンのバイト先のガソリンスタンドを訪れた。

 ソウルでもあまり治安が良くないエリアにあるスタンドだが、時給はそう悪くないらしい。スタンドの店長が、ナムジュンを信頼して、大事な仕事も任せているらしいから、そのせいで特別に時給が良いのかもしれないが。

 

 

 

 

 彼がここで働き始めたのは今から5年前。まだナムジュンが中学生だった頃だ。

 彼の父親は会社の経営者だった。小さな会社ながらも、社長と呼ばれる立場であり、従業員も何人か使っていた。しかし、不況のせいで、事業が行き詰ってしまい莫大な借金を抱えた状態で倒産した。

 父親は倒産したその日から家には帰って来なかった。まとまった金を持って逃げたらしい。そして、翌日は母親が弟を連れて家を出た。母親は、弟で手一杯だからナムジュンまで連れては行けないと言った。そして、10万ウォンだけナムジュンの手に握らせると、真夜中に家を出て行った。

 残されたナムジュンは、翌日の日中、借金取りが家を取り囲んで騒ぐ中、息をひそめて今後どうやって生き延びるか考えた。そしてリュックに工具や缶詰、携帯ラジオなど、とりあえず必要と思われるものを詰めて自分も真夜中に逃げ出した。公園で寝泊まりして、年齢を偽って日雇いのバイトで金をを貯めた。当然学校には行かない。

 そして、流れ着いたのがこのガソリンスタンドだった。真面目なうえに要領の良いナムジュンを、店長は可愛がってくれた。親に見捨てられた彼の境遇を気の毒に思い、スタンドの近くの自分の所有地に、ナムジュンが住み着くのも許してくれた。そこはごみ集積地の裏であり、ものすごい匂いのする場所でもあった。しかし、その頃にはもうナムジュンはそんな程度の事は気にならなくなっていた。匂いなんかにこだわっていては生きてはいけない。

 臭いゴミ捨て場は彼にとっては宝の山だった。家具や生活雑貨が、まだ使える状態で捨てられていることも珍しくなかったからだ。ナムジュンは物置を見つけると、店長に手伝ってもらって敷地の隅に移動して、それを家にした。中は意外と広く、布団もひくことができた。こうして、親から捨てられた約二年後に、彼は自力で家を手に入れたのだった。

 

 

 

 

 ナムジュンは「ちょうどこれから休憩だから」と言って、スタンドの休憩室に僕を連れて行った。

「コーヒー飲みますか?インスタンドのだけど。」

「うん。飲みたいな。」

 僕は折りたたみ式の椅子に腰かけた。歪んでいるのか、座るとガタガタと不安定に揺れた。ナムジュンが簡易テーブルに紙コップのインスタントコーヒーを置く。

「あれ?おかしいな。ミルクがない。」

 ナムジュンが椅子から腰を浮かせてきょろきょろと辺りを見回している。僕はさっきナムジュンがコーヒーを淹れる作業していた場所に視線をやった。

「床に落ちてるよ」

「あ、ほんとだ」

 ナムジュンは慌てた感じでコーヒーミルクを拾ってTシャツでごしごしと拭くと、自分のコーヒーに入れた。

 ナムジュンらしい失敗に僕は笑った。ナムジュンも自分で笑っている。

「そそっかしくて嫌になる。本当に俺って頭が悪い。」

「誰もナムジュンが頭悪いなんて思う人はいないよ。」

 もしかしたら、このそそっかしさは実はナムジュンにとって大事なのかも。僕はふとそう思った。頭脳明晰な人が陥りがちな、自信過剰を防いでくれている。

 自信過剰な人は自分の価値観・思考が常に正しいと思うから、そこで精神的な成長が止まってしまう。でもナムジュンは常に謙虚だ。

 

「いつもヒョンが飲んでるドリップコーヒーと、えらい違いですよ。」

 ナムジュンがからかうような声で言う。

「大丈夫。気にしないから。」

「で?どうしたんですか?」

 ナムジュンは僕の正面に座って、テーブルの上に肘を置いて両手を組んで、その組んだ手の上に自分の顎を載せて、僕をじっと見ている。何だか観察されているような気分だ。

「いや、テヒョンは大丈夫だったかな?って思ってさ。」

 ナムジュンは、「ああ、それか」といった感じで、納得した顔をした。

「体調があまり良くなかったみたいです。居酒屋のバイトも、あいつに合わなかったみたいだし。」

「昨日電話したら、ちょうど居酒屋のバイト中だったみたいで、あまり話もできなかったんだ。何か事件が起きたみたいで、大変そうだったよ。」

 ナムジュンは頷いた。

「ちょっと嫌な客に絡まれて、それがきっかけでバイト辞めたみたいです。代わりにカフェで働くことになったみたいで。」

「ん?もうバイト決まったの?」

 ナムジュンも首を傾げた。

「よく分からないけど、昨日の夜、たまたまバイト募集中の店の前で、店長に声をかけられて、それで決まったらしいです。今日からカフェに行ってるみたいなんだけど。」

 僕はほっとした。飲んだくれた男達がいる居酒屋より、カフェの方が彼は落ち着けるだろう。それに、今日から行ってるいうことは、彼は元気だということだ。

 ほっとするそばから、昨夜の夢の中でのテヒョンの囁き声が頭の中に蘇る。

「・・・あの、テヒョンは最近、おかしな様子は無い?」

「テヒョンが?なぜ?」

 ナムジュンの目が鋭く光る。

「いや、その・・・ちょっと前と様子が変わったような気がして・・・」

 ナムジュンはちょっと俯いた。

「うーん。そうかな?・・・辞めた居酒屋は、店長も嫌な奴だったみたいだし、ストレスが結構あったらしくって。そのせいで元気が無かったかな。でも、そこは辞めたから大丈夫ですよ。」

「そうか。それならいいけど。」

 僕は目を伏せて、インスタントコーヒーを飲んだ。何故か紙コップの味がする。

「明日あたり、行ってみましょうか?カフェに。」

「そうする?」

 ナムジュンはにやりと笑った。

「カフェなんて高いから、俺だけでは行けないから。だからヒョンのおごりですよ。」

「もちろんだよ。」

 

 

 

 


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