病院は常に忙しいが、休み明けの午前中は特に忙しい。待合室では大勢の患者がじりじりしながら、自分の番を待っている。そのほとんどが、まるで大したことの無い症状なんだけれども。

 キム・ユジンは医者達に偉そうに指示される度に心の中で毒づいていた。あいつらは、「薬品持って来い」だのなんだの一方的に命令してくる。私のことをまるでロボットみたいな動く機器だと思っているみたいだ。こっちの感情なんかお構いなしで、ひたすらコマンドを入れてくる感じ。

「今に見ていてよ。」

 ユジンはそっと独り言を言った。

 自分は持って生まれた美貌で、今のこのクソつまらない日常から抜け出すのだ。

「お金持ちが病院に来ないかしら・・?ここの医者達よりずっとずっと、金を稼いでいる人達」

 この病院は比較的低所得が多く住むエリアにあるからそれは難しい。やはり江南エリアの病院に転職した方が良さそうだ。

 カルテを整理しながらそんな事を考えていた時、カウンターの向こうで、見たことがある男性が自分に向かって微笑んでいることに気付いた。

 名前が思い出せず、曖昧に微笑んで頭を軽く下げると、男は近づいて来た。

 中々のイケメン。そして見るからに高級そうなスーツをを身に付けている。ユジンは彼の手首を見て、思わず目が釘付けになってしまった。カルティエの腕時計!本物なのかしら?

腕時計から目を離さない自分を見て、男性がくすりと笑い、ユジンは赤面して視線をカルテに戻した。

「・・・何か、ナースステーションに御用ですか?」

「こんにちは。僕のことを覚えていないですか?」

 ユジンは忙しく頭を回転させて考えた。見たことがあるはずなのだが思い出せない。

 ユジンは相変わらず赤面しながら首を傾げた。

「あまり記憶力が良くなくて、ごめんなさい。」

「ホソクとジミンの家で会いましたよ。」

 ユジンはカルテから目を離して、はっきりと正面から男性を見て思い出した。ホソクが倒れた時に家に来ていた人だ。その後、体育館でも二人と一緒だった。お金を持っていそうだったから興味を持ったものの、仕事に追われているうちに忘れていた。

「ごめんなさい。気づかなくて。」

 お詫びにとびっきりの可愛らしい笑顔を振りまいた。

「ジンだよ。よろしく。」

 握手を求めてきたので、勿体ぶりながら手を差し出した。

 ジンは、手を握りながら囁いて来た。

「きれいだね。とても。ここに居るのが勿体ないくらいだ。」

 ユジンは怒った顔を作りながら、手を引っ込めようとした。内心ではほくそ笑んでいることを、この馬鹿な男は気づかないだろう。

「からかうつもりなら帰ってください。忙しいんです。」

「からかってなんかいないよ。本気だから。」

 引っ込めようとした手をしっかりと握って、ジンはじっとユジンの目を見つめた。

「こんな所、君は勿体ないよ、本当に。」

 そうささやくと、手を離した。

「また来るよ。仕事頑張って。」

 ユジンは気の無い振りを装ったが、にんまりとした口元は隠せなかった。

 背が高くてイケメンで金持ち。こんな男と一緒にいたら、世の中の女全員が自分を羨ましがるに違いない。

「作戦立てないと。」

 どんな服、髪型が好みだろう?ホソクやジミンと一緒の時みたいに、Tシャツにジーンズではまずいだろう。ボーナスを奮発してワンピースを買おうか?

 楽しい計画を頭の中で組み立て始めた時、スマホが鳴った。ホソクからだ。

 ユジンはにやりと笑った。

「あら、初恋君からだわ。」

 施設で一緒に暮らしていた十代の時、思い切ってホソクをデートに誘って、あっさりと断わられた事がある。

 振られたなんて、思い出すと本当に腹が立つ。少し意地悪しちゃおうかしら。

 電話に出ようとしたところ、年増の看護師長が来るのが見えて、ユジンはスマホをさっとしまった。苛めるのは後にしよう。

 

 

 

 

 

 

 そう。勿体ないよ、お前みたいに心が汚い女には、ジミンもホソクも勿体なさすぎる。お前に相応しいのはベセルのように悪魔に魂を売った奴だろう。

 僕は、カルティエの腕時計に涎を垂らしそうになっていたユジンの顔を思い出して苦笑いした。

 お前の自惚れをとことん、突いてやる。早く二人に自分の本性を見せるんだ。

 

 病院の廊下を足早に歩いていたが、ある物が目に入って驚いて動きが止まってしまった。

「ベセル?」

 廊下の向こうに、気だるそうに壁に寄りかかる、ベセルの姿が見えた。

「ジン、めかしこんでいるな。」

 ベセルは特に驚いた様子も無かった。

「何の用だ?ここに。」

 語気が鋭くなった僕を見て、ベセルは気味の悪い目つきでねっとりと笑った。

「お前と同じだよ。女を口説きにきた。」

「・・・・・。」 

 僕は何も言えずに、ただベセルの淀んだ目を見つめた。怒りの感情よりも強い悲しみが僕を襲ったからだ。

 天使だった頃のベセルは、一人でも多くの人間に幸せをもたらそうと熱意を持って働いていた。何故、こんな事になってしまったのか。

「・・・お前は、本当にもうダメなのか?元には戻れないのか?」

 ベセルはぎろりと目を剥き、その顔つきは、一瞬、牙が見えた錯覚が起きたくらいに獣そのものだった。それ程おぞましい、低次元の欲求にまみれた目つきだった。

「勝った気でいるのか?それで上から目線で憐れんでいるわけか?」

 ベセルは忌々し気にそう言うと、次の瞬間にはにたりと笑った。

「まあ、せいぜい勝利を楽しんでおくことだな。今のうちに。」

「勝った気でいるつもりは無いし、上から目線でも無い。」

 僕の言葉は、ベセルにとっては更なる嫌味にしか聞こえないようだった。

「忘れるなよ。全員助けなければいけないんだ、お前は。逆に言えば、俺は1人でもこちら側に引き込めば勝ちだ。」

「僕が今話しているのはお前を助けたいということだ。神に助けを請うんだ。最下層からのスタートになるだろうけれど、悪魔と関わっているよりずっとましだ。」

「大きなお世話ってやつだ。この馬鹿め。」

 ベセルは口を歪めて笑うと、僕に背を向けて立ち去った。その後ろ姿は悠々としていて、まるで自分の勝利を確信しているかのようだった。

 

 僕は病院の待合室で、椅子に腰かけると大きくため息をついた。あまり寝ていないせいか、頭がずきずきする。肉体としての身体を持つ人間は、こういう時不便だ。

 僕は痛む頭で考えを整理した。

 ベセルがこの病院にいたということは、やはり、あの男がキム・ユジンを操っていたのだろう。彼女の虚栄心に働きかけて、ジミンとホソクの二人に疑心と怒りが生まれるように仕向けていたのだ。

 僕は今日、それを逆手に取って、キム・ユジンのの虚栄心を更に焚きつけた。ベセルはジミンとホソクの二人を甘く見ているが、僕は二人を信じている。ユジンの虚栄心はもう溢れそうな位にいっぱいになっている。ちょっと杯を揺らすと黒い汁が落ちてきそうなくらいだ。

 僕は今日、その杯を揺らした。彼女からしたたり落ちる黒い汁に、二人なら気づくだろう。

 僕は、待合室でしばらく考え続けたが、スマホの音で中断した。

「・・・ジミン?」

「ジンヒョン、どうしよう・・・。助けて。」

 

 


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