内科は結構な混み具合だった。僕はホソクが診察を受けている間、廊下の待合の椅子で座って待った。病院は僕にとって、少し懐かしい場所だ。
なぜなら、僕は天使として数えきれないくらい沢山、病院を訪れているからだ。様々な時代の、様々な国の病院を訪れた。もちろん死を迎える人を天界に案内するために。
退職した人間が、以前の職場を訪れるとこんな気持ちなのだろうか。
ここにも大勢の天使達がいるんだろうな、そう思いながらきょろきょろと辺りを見渡した。天使として病院に降りて来ている時も、そうして同業者を探したものだ。
人間の身体に戻されてしまったから、もう僕には天使は見えない。しかし天使の代わりに、ある人物が廊下を横切って行くのを見つけて、僕はぎょっとして立ち上がった。
ベセルだ。ベセルがここにいる。
僕は急いで後を追い、ベセルが行った廊下を曲がった
「・・・?」
しかし、曲がった先の廊下には看護師が数人いるだけで、ベセルの姿は無かった。見間違いだったのだろうか?確かにあの横顔はベセルだったと思うんだけども。
首をかしげながら、元いた場所に戻ると、診察を終えたホソクが座って待っていた。
「ヒョン、どこに行ってたんですか?トイレ?」
「あ?ああ、まあ・・そうだよ。診察は終わったかい?」
「はい。薬を受け取ったらもう帰っていいそうです。」
僕はホソクの横に座った。ホソクは「帰っていい」はずなのに座ったまま、きょろきょろとしている。
「彼女を探しているの?」
「今日は勤務の日のはずなんだけど・・・」
ホソクは、スマホを取り出した。僕は横目で画面を盗み見た。朝、病院に行く前に出したメッセージは、まだ既読になっていないようだ。
「忙しいんだよ、きっと。」
僕は、ホソクの肩をぽんと叩くと立ち上がった。ホソクも渋々立ち上がる。
後ろを振り返りつつ歩くホソクと並んで歩く僕も、実は似たような心境だった。あの男の横顔。あれは絶対にベセルに間違いないだろう。奴は病院に入り込んでいるのだ。そして、ホソクとジミンを地獄に突き落とす準備をしているに違いない。
僕はホソクの痩せた肩を抱いた。
「え?香水?こんな高い物をくださるんですか?」
ホソクががっかりと肩を落として内科を後に歩き出した時、キム・ユジンは処置室の中にいた。緊急時に使う部屋で、普段は空いている。
「ロンドンに出張しててね、君のために買ってきたんだよ。」
気取った様子で壁にもたれかかっているのはベセルだ。三か月前までは、暴力団の手下だったはずなのに、今現在のベセルの肩書は、大手薬品会社のエリート営業マンだ。
「ありがとうございまーす。でも、もらっていいのかしら?」
可愛らしく小首をかしげるユジンに、ベセルはいきなりぐいっと顔を近づけてきたので、流石にユジンはたじろいだ。しかしべセルは気にせず彼女の耳元で囁いた。
「何も見返りなんて無いよ。ただ、もっと美しく、もっと魅力的に、もっと男達の心を虜にして欲しいだけ。」
ユジンは顔を赤くした。
「私なんて、別に・・・。」
「自分は美人だって知ってるくせに。」
ベセルは冗談ぽく、ユジンの顔を軽く触った。
「意地悪言わないで。」
ユジンは上目づかいで、ベセルを睨んだ。
べセルはくすっと笑うと、目を細めた。恐くて気味の悪い目つきだ。でも、悪魔の誘惑に目がくらんでいるユジンは、その気味の悪さに気付かない。
「君が前に言っていた、同じ施設で育った男の子達はどうした?二人とも手に入れたかい?」
ユジンはふくれっ面になった。
「一人はね。でも、もう一人のオッパは手ごわくて。デートに誘いたくても怖い顔をして私のことを邪険にするのよ。」
「好きだから、邪険にするんだよ。」
「ほんとに?なんで?」
「男の友情ってやつだよ。下らない男の見栄でもある。」
ベセルは少し小馬鹿にしたような表情を浮かべた。
「そして君の魅力は、その下らない男の友情よりも低いんだ。つまり、その程度ってことだよ。」
ユジンはムッとした顔をしている。
「馬鹿にしないで。あんな貧乏な男、すぐに落としてみせるわよ。」
ベセルは満足気に頷いた。
「いわゆる、お手並み拝見ってやつだな。あいつらを物にしたら、次はもっと金持ちの男達を狙えばいい。彼らはいわば練習台だよ。」
ユジンはくすくすと笑った。
「ひどい事言うのね。」
ベセルは、顎でさっき渡した香水を示した。
「その香水は更に魅力を高めてくれる。彼らは今まで以上に君に夢中になるよ。」
「やった。」
ベセルは処置室を出ると、内科の方に向かった。さっき、あそこにホソクとジンがいたはずだが、もう帰ったらしく姿は見えなかった。
ジンが自分を見つけて追いかけて来たことはわかっていた。さっと処置室に入ったので、廊下を探していたジンの視界から消えることができたのだ。もう少し辛抱強く探せばよいものを、諦めて帰ってくれたから助かった。もし、キム・ユジンにコンタクトを取っていることがわかったら、全力で止めようしたことだろう。
キム・ユジン。馬鹿な女だ。
ベセルはくっくっと笑った。虚栄心が服を着てあるいているような女だ。愛情などというものは、彼女の精神に存在しない。
初めて会った時は、まだ彼女の心は完全に悪に染まっているわけでは無かった。
しかし彼女の中には嘘、虚栄心、所有欲、そういった良くないものの欠片が眠っていた。最初、それらは小さな点のような染みだったのだが、ベセルが少し働きかけると、あっという間に染みが広がり、彼女の心は真っ黒に染まってしまった。
若い男達は、あの美しい肌を一枚めくれば汚らしい真っ黒な魂がいるなんて思いもしないだろう。彼女は悪魔にとって攻撃力の高い武器なのだ。
「あの香水も、面白い効果を見せてくれるだろうな。楽しみだ。」
ベセルは、悪魔そのものの顔でほくそ笑むと、病院を後にした。
