「昔ね、あるところにとても人の良い山羊がいたんだ。」
素敵な出だしだった。僕は目を閉じて人の良い山羊を想像してみた。
「山羊はいつも重い金時計を首から下げて、ふうふういいながら歩き回ってたんだ。ところがその時計はやたら重いうえに壊れて動かなかった。そこに友だちの兎がやってきてこう言った。
〈ねえ山羊さん、なぜ君は動きもしない時計をいつもぶらさげてるの? 重そうだし、役にもたたないじゃないか〉ってさ。
〈そりゃ重いさ〉って山羊が言った。
〈でもね、慣れちゃったんだ。時計が重いのにも、動かないのにもね〉。」
医者はそう言うと自分のオレンジ・ジュースを飲み、ニコニコしながら僕を見た。僕は黙って話の続きを待った。
「ある日、山羊さんの誕生日に兎はきれいなリボンのかかった小さな箱をプレゼントした。それはキラキラ輝いて、とても軽く、しかも正確に動く新しい時計だったんだね。
山羊さんはとっても喜んでそれを首にかけ、みんなに見せて回ったのさ。」
そこで話は突然に終った。
「君が山羊、僕が兎、時計は君の心さ。」
『風の歌を聴け』/村上春樹