「好き嫌い」って不思議だなぁと思います。
だって、自分とまったく同じ好みを持った人っていないでしょ。
音楽、味、服装、質感、匂い、楽しいと感じる仕事。。。
何が好きかって人それぞれ違うよね。
この地球にこれだけの「モノ」があふれているのも、
人の好みの多様性から。
この地球という物質世界の楽しみの一つは、
自分の好みを知ることでもあると思うんだ。
好みのものを見つけること。
出会って初めて「これ!これ私の好みのどストライク!」ってことがあるでしょ。
でもそれ、他人からしたら別に他の多数のものとなんら変わらないんだよね。
自分にとって、特別だと感じるもの。
この違いってどこから生まれてくるんだろう?
何のためにあるんだろう?とかって、よく考えてた。
考えてみるとさ、
モノって、自分の外側にあるように見えて、
本当に存在しているのは「自分の内側」なんだよね。
味覚がわかりやすい例だと思う。
たとえば、りんごがあるとするでしょ。
同じりんごを切って食べるとするでしょ。
ある人はそれを「甘くて美味しい」と感じ、
ある人は「すっぱくて苦手だ」と感じる。
それに味なんか、体調によってだって感じ方が変わるしね。
りんごの味が変わったんじゃないよね。
その人の持っている感覚によって変わるってことだよね。
りんごを食べることによってわかるのは、
どんな味覚を自分が持っているかなんだよ。
りんごという「外側のモノ」を介することで、
自分の内側の感覚を知るの。
好き嫌いっていうのも、
本当は外側の「モノ」は、まったく関係ないんだよね。
外側の「モノ」を介してわかる、
自分の内側の感覚があるだけ。
それによって、自分がどんな感覚を持っているかを知るの。
「自分自身」に出会っているだけなんだよ。
服とか部屋のレイアウトとか、
食べるもの、選ぶ仕事、、、そういう「好み」があるって、本当に面白いと思う。
「なんで私はそれを好きだと感じるんだろう」、って考えてもわからないじゃない。
わからないのに「ある」じゃない。
それを求めていたことすら知らなかったのに、
見つけたときは、「これが自分の求めてたものだ」と
感じることさえある。
これって、物質世界ならではの面白さだと思うんだ。
外側のモノを介して自分自身を知るっていう。
何かを美しいと感じるとき、
その「美しい」ものは自分の外側ではなく「中」にある。
それをどうとも思わない人もいるの。
好きじゃないと思う人もいるの。
100人が100人とも「好きだ」と思うものなんてないの。
それってすごいことだと思うんだ。
どんな名画も、
どんな絶景も、
その美しさは「自分の内側」にあるんだよ。
それを「美しい」と感じる自分に出会うの。
何かに感動するとき、
それって、自分に感動しているんだよね。
自分自身の愛や、優しさや、神聖さに出会っている。
それがなかったら、それに感動することすらないんだよ。
音楽とか、絵とか、物語とか…
自分の好みのものに出会ったとき、
それは「私の中にある、自分の世界のイメージを表現してくれるもの」だと感じるんだ。
あぁ、私の代わりに私の世界を表現してくれた人がいた、
「私の世界」に出会わせてくれてありがとう、って思うんだ。
自分の中に在った、
在ったけど今まで形のなかったものが、
「モノ」という「カタチ」になって目の前に現れたときの感動。っていうかね。
「そう、これ!」
っていう感覚。
しっくりなじむ感覚。
なんだか懐かしい感覚。
楽しいよね。
私たちは、「自分の内側の世界」に触れたくてたまらないのかもね。