今までの自分の人生を思い出して気づくこと。



私ね、自分の感覚を、

今の自分のこの感覚を、






ずっとずっと守ってきてたの。





このブログで綴っている感覚もそうだけど、

もっと、言葉にできない色々な感覚も含めて全て。






その感覚が濁りそうになると、

私の無意識が強制的にそれをやめさせてしまうの。



無意識が・・・と書いたのは、

私の意識がその当時感じていたことを言葉で表すと、

やめることが本意ではない、続けたかったのに「できなかった」と感じていたから。





そのうちのひとつが「学校に行くこと」。





私、小学校・中学校の半分は行っていないのです。

俗に言う不登校児です。




その当時はね、

なんで私は学校へ行けないんだろう?

とか思ってたよ。

自分の意思に反して身体が動かなくなる自分が不思議でたまらなかった。



だからこれは今になって言葉にできるようになった感覚。











私ね、


「流されたくなかった」の。





私、他の人の「普通」「当たり前」に、飲み込まれたくなかった。

この世界の「常識」に、染まりたくなかった。

初めから、私にとってそれは「普通」でも「当たり前」でもなかったから。





私はね、この世界にずっと違和感を感じてきたけれど、


この「違和感」は、これだけは守り抜かなきゃと「死守」してきたものなんだ。







いつかの記事で私は「地球は“やること”が多すぎる」と書いたことがあるけれど、


私にとって「自分の内側を感じる時間」というのはなくてはならないもので、

自分で考えるとか、精神のことに関わる時間がなくなることは耐えられないの。

だんだん自分の視界が狭くなっていくのがわかるの。


たくさんの“やること”で忙しくなって、

それだけになってしまうのが嫌だった。

忙しいと機械みたいな人間になる、

私が私である必要がなくなってしまう、

ただの習慣の生き物、「モノ」になってしまうと感じていたの。



やることがあって忙しくて、

「これって本当はおかしいんじゃない?」

と立ち止まって考える時間がなくなってしまうこと。

それに対する危機感、に近い感覚だったかな。






あくまでこれは、私にとってですけれど、



私がどうしても嫌だったのは「無感覚になること」です。





「当たり前」といわれることを「当たり前」と感じること。考えなくなること。





私が「私の感覚」を失うことは、私にとっては「死」を意味するの。






私はね、

この世界で生きることそのものが「危うい」んだ。

「この世界で生きていけるんだろうか?」と常に不安だったくらいだからね。


そして私にとっては、

学校に行き続けることが、

自分の感覚を失ってしまうことになると感じていたの。




学校へ行きながら私が感じていたのがね、

大きな川で、流されそうになっているんだけど、

それに抵抗しようと陸から伸びている木の枝に必死でしがみついているようなイメージ。



うん、まぁ学校のいろいろが「なんで???」でいっぱいだったからね。

その中で生きていかなきゃならないことが、耐えられなかったんだろうな。

あんまり「なんで???」に圧倒されると、フリーズするのさね(笑)


唐突にブレーカーが落ちる、

あの「ぷしゅぅぅぅん」って感じねー。



その当時の私には学校へ行くことをやめるしか、

自分の感覚を守る選択肢がなかったんだ。








でも貴重な体験だったよ。





学校に行っていない、という少数派であったこと、

世の中の「当たり前」から脱線したことで、


「当たり前から外れても生きていける」

「世界はみんなが信じているより広い」と、

早くから確信したのよね。





学校ってさ、なんて小さい世界なんだろうと思うよ。

その中にいるときは、それが全てのように思えるんだけどね。


「常識」なんてのはほんとうに「ちっぽけな世界」でしかなくて、

もっともっと外に豊かな世界が広がっている。




この世界もそうだよ。

自分の見ている世界はちっぽけな世界でしかない。

当たり前を「当たり前」だと思い込んでるだけなんだって。







自分の体験からも、

私は確信を持って、そう言えるのです。





もっともっと広い世界があるんだよ。

当たり前だから仕方ない、なんて諦める必要ないんだよ。










「常識」の外にも、

世界はあるんだ。







この「地球」レベルでの常識でさえも、ね。