しばらくお休みしてしまいました。ゴメンナサイ。
さて、今回はガイドさんの「修学旅行生同行案内便り」をご本人の原文のままでご紹介しましょう。

道外から移住されて5年目を迎えた赤レンガカフェのガイド、Mさん
この方、週に3日は「大通公園」を端から端まで歩いて廻り、残りの4日は「野山歩き」と「自然観察」に費やしているという、とてもアクティブな男性で、花や樹木などに、うんと造詣が深いんです。

そんな元気ハツラツのMさんから “北大構内を現地からナマ解説” 風バージョンでお届けします。

※以下、もちろんご本人の許可のもと、ガイドMさんの文章を掲載します。

長いですがごゆっくりお読みください♪

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秋分の日の9月23日、滋賀県の高校の修学旅行生をガイドする観光ボランティアをしてきました。

行き先は「北大構内」です。

高校生はそれぞれのグループに分かれて商店街の狸小路、芋掘り体験、北大と事前に分かれていました。 “はい、この旗の下で集団で移動!”という、半世紀以上前の私達の修学旅行とは違って、随分自由な選択があるようです。

北海道大学と言っても単なる大学ではなく、

●開拓の歴史とロマン

●人工雪や恐竜の標本などの学術 

●ポプラやハルニレなどの自然

立派な観光資源があって観光ポイントになっており、近年は熟年ご夫婦の旅行者などもゆったり散策する姿が多く見られます。

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(写真:昨年10月のポプラ並木にて)


しかも北大構内は甲子園球場の40倍もある広さで、
それが人口187万都市の都心のど真ん中にあるのです。

ですから観光客だけでなく、一般市民も緑を求めて散策したり、絵心のある人が筆を走らせる憩いの場にもなっています。


事前に求められた案内コースを見ると・・・

●クラーク博士が作った日本の畜産農業の原点ともいえる「モデルバーン」 (第二農場・国の重要文化財)

●秋になると黄金色の絨毯と銀杏の砂利道となる「イチョウ並木」

●北大のシンボル、「ポプラ並木」

●札幌農学校から始まる北大125年の歴史の中で輝く学術的成果がいっぱい収められている「北大総合博物館」

●足尾銅山の鉱害で批判を浴びた古河財閥が「ごめんなさい」といって寄付した当時のお金100万円の一部で建てたフランスルネッサンス風の「古河講堂」(国登録指定文化財)

●そして「クラーク像」


盛りだくさん
広い構内を端から端まで歩かなければいけません。



「皆さん、きょうは北大の学生になったつもりで

エルムの森をゆっくり歩きましょう」


こう言って右に左に歩きながらガイドをはじめましたが、
しばらくして重大なあることに気づきました。




“今時の高校生、クラーク博士を知らない”


ということを。     

もちろん

「Boys be ambitious!」を聞いたことがない
ということも。

「なあに、それ?」ていう感じなんです。

ハナから知ってるものと思ってガイドしていただけに慌ててしまいました。
知っていたのは引率していた50才前後の先生だけだったのです。

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(写真:クラーク像前での高校生)

よく考えてみると、クラーク博士が知られるようになったのは、
戦前戦後の教科書で取り上げられたからです。

わずか9ヶ月間しか札幌にいなかったクラーク博士が、キリスト教的な博愛精神に基づいて行ったその教育は、学生に大きな感銘を与え、その精神は内村鑑三新渡戸稲造有島武郎らによって脈々と受け継がれました。

ちなみに修学旅行生に聞いたところ、“クラーク博士”は、県の教科書に載っていないというのです。


頑固者であったクラーク博士は札幌農学校開校の挨拶で学生に対し

「君達はここで学問を修めることにより、将来社会的な地位と名誉を得ることになるだろう。そのためには健康な身体を作ること。過度な性生活を慎むこと」

を求めました。

東大の学長でも高校の校長でも言わないことを
入学式でづけづけ言ってるところが
一徹者クラーク博士らしいところでしょうか。


そのクラーク博士に対し明治新政府が払った年俸は7000円、
今のお金でおよそ7000万円です。

当時クラーク博士は49歳、
マサチュセッツ州にある農科大学の学長をやっていましたが、
その学長の給料の2倍にあたり、
明治新政府がクラーク博士をいかに厚遇したか伺えます。

そのせいかクラーク博士は
「契約は1年だけれども2年分は働く」
とよく言っていたそうです。



学生に多くの影響を与えたクラーク博士が札幌を離れるとき、
別れを惜しむ学生達は、どこまでもついて行きました。

札幌の隣の北広島市の原野の中にある島松という馬の休憩所についたとき、

クラーク博士は

「君達、もういいよ、ここで別れよう」

と言い、
そのとき残した言葉
「Boys be ambitious!」
だと言われています。



見えなくなるまで見送った学生に対し、
クラーク博士は一度も振り返ることなく、
まだ雪残る小道を馬に乗って去って行ったということです。

蝦夷から北海道に変わってまだ間もない、明治10年の出来事です。

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(写真:名言を残した島松に建てられた記念碑)



広い構内を歩きながら高校生クラーク博士のことを話しました。

そして現在クローズアップされている教科書問題というのが
どんなに大切なものかを痛切に感じた一日でした。


それにしても歩き疲れました。