父の日、感謝の気持ち伝えた?というお題。
私の父はすでに他界している。(その分、義父を大切にしないと・・)
ときどき父の話を書くこともありますが、子供の頃から、酒癖が悪く、暴れて散々母を苦しめた父を嫌っていた。
小学校のとき必ず書かされる「私のお父さん」なる作文、苦痛だったな。
当たり障りのなさそうな文章で原稿用紙をそれなりに埋めた。
月日が流れ、私が二十歳になったとき、初めて父と飲んだ。父の馴染みの店らしい。
店に入り店のオーナーと思われる人にさりげなく「いつもご迷惑かけてすみません」と声をかけた。
酒癖の悪さを知っているので、私は「そんなに飲めないから・・・」と親父を立てつつ、時間を決めて飲むことにした。
話すネタもあまりないので、聞かれたことをただ答えただけだった。
相手もさぞかし退屈だったろう。
まだカラオケもそれほど流行っていなかった頃だったが、店にカラオケの機械があった。
「何か歌ってみろ」と親父。
他人を褒めたりすることのない親父だった。何か余計な一言をつけてけなす。
言われた方は腹が立つだろうなあ。人によっては喧嘩になりかねない。
私の手元にマイクが。
選んだ曲は河島英五さんの「野風僧」。
お前が二十歳になったら・・・の歌いだし。
父は黙って聴いて「いい曲だな」と一言。
珍しいリアクションに少し戸惑った。
何事もなくその日はお開き。
父も歳と共に酒量は減っていったようだったが、機嫌の悪い日は相変わらずだった。
次に親父とさしで飲んたのが、結婚の報告。
この頃は、母は店に泊まり込みで私は新居に移っていたので、親父は一人暮らし。
「そうか・・・よかったな。長かったな独身時代・・・」とボソッと。
薄暗い、タバコ臭い親父の部屋で父は喜んでくれていた。
親父も変わったな。
そのあと、さらに酒量も減っていったようだ。
結婚式の時は、本人よりテンション上がっていていたのが恥ずかしかった。まあいいけど。
次にさしで飲んだのは家内が妊娠したとき。
「よかった。よかった・・・」って親父。
このあと、明らかに親父は変った。
本人も少しでも良いおじいちゃんになろうとしたのだろう。
孫にはいつも優しかった。
母は「何をいまさら」と言うが、自分を変えようとしている者に吐き捨てる言葉はない。
私は娘の前で、親父の悪かったことなどは語らないと決めた。
ましてや、他界した今となっては。
親父を何となく許してもいいかなと思うと、親父の抱えていた悲しみのようなものが重くのしかかってきた。
親父の行っていた床屋の主人は父の死後、「いつもここに来ると、女房には悪いことをした」と彼は言っていたよと語る。
自分は親父の失敗も含めて、その生き方から何かを学ぼうと思った。
無駄な人生などないという持論から、親父の人生から発掘できないものかと。
何故、酒を飲んで爆発したのか。
まずは職場を思い出してみた。
ある同族経営の病院で秘書として働いていた。
家族ぐるみのリクリエーションなどで私も行ったことがあったが、何故か楽しくなかった。
あとで記憶を整理すると、職場の上司は家族の前でも平気で親父のダメ出しをしたり、馬鹿にするようなことを平気で言っていた。今の時代ならパワハラと言われる環境だったのだろう。
定年までよく耐えたな。ときどき溜まったエネルギーが暴走したのだろう。
自分も屈辱に耐えてきた時期もある。趣味を広げ、夜間専門学校に通ったり・・・
自分の人生、追い詰められていないと思うことが大切かと気付いた。
一緒に飲む仲間も私は考える。
あまりこの人苦手という人とは極力飲まない。ストレスが溜まる。
楽しい時にしか酒は飲まない。
あと、恩師がいつも語っていたこと。「酒の席の話も100年先まで責任を持て」
これは座右の銘にしている。
こんな感じで、私は酒で崩れることはない。
眠くなることは多いけど^^
カラオケで2次会のとき、片隅で居眠りしながら、自分の曲のイントロが流れるとマイクを持って一通り歌い、席に戻るとウトウト。その不自然な姿が仲間に受けた^^
そう、親父が一人で暮らしていた頃、ときどき散歩と称して鎌倉を歩いていたらしい。
一体親父は何を観ていたのだろう。どこを歩いたのだろう。
今となってはわからない。海に向かって「ばかやろ~」とでも叫んだか^^
私も鎌倉が好きで訪れるが、どこかで同じ風景をみているのだろうか。
以前撮った、由比ヶ浜の写真を添えて。
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