帰りの電車で運良く席に座れた。車内は空いており反対側の吊革がよく見える。吊革の輪っかの向こうには広告が見える。
向こう側には一日乗車券の広告、三浦半島までいくらで行けるかが書いてある。吊革の輪っかだけを見ると運賃が見える。この数字が運賃だとわかるのはその周りが見えているからだ。輪っかという小さな面積の中身がわかるのは、きっとその全景が見えているからだ。
仮に吊革の中身だけが違う色を出していたら、それは吊革でも何でもなくなるのだろう。何かを通して見る、色眼鏡のようなものとなるのだろう。ただ、その中の色は何なのかがわからない。全景が見えなければそれが何かが見えなくなる。
それには今の社会に繋がる部分がある。分業化、専業化を推進することによって、全景が見えなくなる。見ていたものが実は自分の認識とは全く違うものになっている。そんなことが現実に起こっている。
現代人は恥ずかしながら一つのパラダイムの中で生きがちだ。それが結局なんなのか。全くわからないにも関わらずそれを良しとしている。そうして視野を狭めるこのになんら抵抗を感じない。それで良いとしている。
再び車内。
上を見ると金網が見える。日本製らしく規律正しく編んでいる。その一つ一つの穴が違う色を見せていたらどうなるなだろう。それは一体何と形容されるのだろう。
そんなことは誰もわからない。いや、反面誰もがわかっているのかもしれない。それはそのことを見た人間だからこそ表せることなんだろうと思う。だからこそだれもわからないし誰もわかっている。きっとこの後起こる大きな問題を定義化するようなことをしている。
それが新しく見出せる感性の一つなんであろう。
それを共有したい。
今日、様々な問題に対してのアプローチが多様化している。答えは多様化に合わせて沢山ある。ただし、正しい答えはその時々できまる。
正しく何時何分何分何秒、地球が何回転した時に出された答えなのかのように筆者が幼い時に流行ったもののような話になる。
つまり、答えは有るようで無いなどと、曖昧なものとなる。これこそが自然の定理なのかもしれない。
幸いなことに人は決めることが出来る。定理を作ったり、主義を決めたり、意外と多様性の中で何とかできている。
定めたり戒めたり拒絶したりと色んなことが可能なのである。
目の前にぶら下がっている物体が、吊革なのか決めることが出来るのが人なのである。
そんなことを毎日見るであろう風景に重ねて人というものを見る。
そんな気味の悪い毎日を過ごしていました。
このブログタイトルの通り、意識高い系を脱却することがてーまなんです。
ブログを書いてる時点て意識高いとみなされてしまうかもしれませんが、そんなこと気にしてられません。
ということで今後、筆を進めます。
