ポーランド現代史の闇・西岡昌紀

女性が怯えたある質問

 いまから三十年以上も前のことである。一九八〇年代のはじめ、世界はまだ冷戦の時代だった。しかし、一九七〇年代末にポーランドに自主管理労組「連帯」が誕生し、ポーランドでは民主化を求める動きが活発化していた。いまから思えば、それはやがて起こるベルリンの壁の崩壊とそれに続くソ連崩壊の予兆であった。
 そうしたポーランドの民主化要求運動が高まり、ポーランドが日本でも世界でも関心を集めていた頃のことである。
 当時、私は大学生だった。私は、ポーランドで進行していた「連帯」による民主化運動に共感し、その動きを見守っている一人だった。その私がある時、あるポーランド人女性と話をしていた私は、異様な出来事に出会った。
 それは、都内の喫茶店でのことだった。戦後生まれのそのポーランド人の女性と私は、英語で話をしていた。とりとめのない会話をしていたその時、私は彼女にある質問をした。
 だが、それは特別深い意味を持って訊いた質問ではない。当時、ポーランドにはまだ行ったことがなかった私が、ポーランドについて何気なく訊いた質問のひとつに過ぎなかった。
 私は彼女にこう訊いたのである。
「ポーランドにドイツ人はいるの?」
 その時、異常なことが起きたのである。
 私がこの質問──「ポーランドにドイツ人はいるの?」──をした直後、彼女は何も言わなくなった。彼女は私の顔をじっと見つめた。そして明るかった彼女の表情はこわばり、何かに怯えたように一変したのであった。そればかりか、彼女はガクガクと両手を震わせ始めたのである。
 私は驚いた。自分の目の前で、何かに怯えて体を震わせる彼女を前にどうしたら良いのか分からず、ただ彼女を見つめ続けた。およそ一分後、彼女の震えは止まった。そして、ゆっくりと明るい表情を取り戻すと、彼女はまた何かを話し始めたのである。
 それは私が尋ねた事柄──ポーランドにドイツ人はいるの?──とは全く関係のない、とりとめのない話題だった。
 私は、彼女の様子が普通に戻ったので安堵した。そして何が起こったのかは分からぬまま、まるで何事もなかったかのように私たちは会話を続けた。そして、やがてその場をあとにして別れたのだった。
 この出来事があった日から、長い年月が流れた。当時、二十代の大学生だった私はあと数年で六十歳になる。しかしその私は、五十八年余のこれまでの私の人生において、あの時の彼女以上に人間が怯えているのを見たことはない。

あるユダヤ人の告発

 一九九〇年代半ばのことである。私はある本に出会った。『AN EYE FOR AN EYE』(目には目を)という本である(初版一九九三年。本邦未訳)。著者はジョン・サック(John Sack:1930–2004)というユダヤ系アメリカ人のジャーナリスト。
 この本のなかで氏が述べているところによれば、氏は幼少の頃、ユダヤ教の学校に通い、ユダヤ教について学んだという。そして、あとで紹介するこの本の一節を読むと、サック氏は敬虔なユダヤ教徒であったと思われる。
 サック氏が書いたこの本(以下、『目には目を』と記す)の内容は衝撃的である。それは第二次世界大戦終結後、ポーランドに残留したドイツ民間人の運命についての報告である。
 一九四五年五月、ヨーロッパで第二次世界大戦が終結したあと、ソ連に占領された当時のポーランドと、戦後ポーランドに併合・吸収されたドイツ東部には多くのドイツ人が残留していた。
 そしてそれらのドイツ人たちが、ソ連支配下の戦後ポーランドでいかなる運命を辿ったかを詳細に語ったのが、この本の内容なのである。

ドイツでは発禁処分

 一九九三年に出されたこの本が語る戦後ポーランドに残留したドイツ人たち、特にドイツ民間人の運命は悲惨であった。「共産化」した戦後ポーランドには多くの収容所が作られ、それらの収容所においてドイツ人の女性、子供、老人、そして赤ん坊までもが残酷な仕打ちを受け、多くが殺害されたというのである。
 サック氏は、こうした戦後ポーランドの隠されていた歴史を、ヨーロッパでの記録の調査と多くのドイツ人、ポーランド人、そしてユダヤ人への聞き取りによって調査した。そして、特にそうしたポーランドに残留したドイツ人たちを収容した収容所の多くがユダヤ人によって運営、管理されていたという驚くべき事実を詳細に記述したのである。
 すなわち、多くの女性や子供、老人、それに赤ん坊までが、ただドイツ人であるというだけの理由で、それらの収容所において暴力に曝され、命を落としていったという。戦後ポーランドの歴史の闇に、ユダヤ人であるサック氏が光を当てたのである。
 今日までサック氏のこの本は、わが国では翻訳が出版されず、日本人の間ではほとんど知られていない。しかし、欧米では一九九三年にこの本が出版されると大きな反響が起き、ベストセラーになった。
 アメリカでは、CBSテレビのドキュメンタリー「60ミニッツ」で取り上げられた他、ニューヨーク・タイムズや『ニューズウィーク』がこの本を取り上げるなどして、大きな反響と論争を生んだ。
 以下に引用するのは、この本に言及した『ニューズウィーク』誌(英語版)の記事の一節である。
〈ユダヤ系アメリカ人であるジャーナリストのジョン・サックは、彼の最近の著書『目には目を』のなかで、新しく生まれた共産主義体制によって集められ、結果的にナチスへの復讐を行わされたユダヤ系ポーランド人たちについて語り、激しい論争を巻き起こした。
 サックによれば、彼ら(ユダヤ系ポーランド人)は自分たちの囚人が彼らが犯したとされる罪状を認めれば殴り、また認めなければ認めないで殴ったと言う〉(一九九五年五月八日号・二十三ページ。西岡訳)
『ニューズウィーク日本版』(一九九五年五月十七日号)の「戦後50年特集語られざるドイツの悲劇」では、以下のように訳されている。
〈戦後ポーランドの共産主義政府は、ナチスに対する復讐を目的として、ユダヤ系国民を収容所に招集したというのだ。サックによると、彼らは収容者にナチスの「罪」を着せ、罪を認めれば罰として暴行を加え、認めなければ拷問に及んだ〉

さらし台につながれる

 驚くべきは、ドイツにおける反応である。ドイツでは、この本は事実上の発禁処分になったという。
 戦後ポーランドで起きたドイツ民間人に対する迫害はもちろん、全てが「ユダヤ人」が関与した事例であったわけではない。ユダヤ系ではないポーランド人も、多数こうしたドイツ人迫害に関与していた。
 たとえば、最近出版されたイアン・ブルマ氏の著作にはこんな記述がある。
〈リプッサ・フリッツ・クロツコウは自宅の絨毯をポーランド人市長の妻に売ろうとしていた。市長の妻はそれまで何度か彼女に、はした金を払って、貴重な品々を買っていた。彼女は民兵にその現場を押さえられた。ドイツ人が所有品を売却することは許されていない。
 リプッサはこの罪のため、人びとが彼女の顔に唾をかけられるように、さらし台につながれた。だが、「ポーランド人はおおむね咳払いをするか、地面に唾を吐くだけで、ドイツ人の方は道路の反対側へ渡った」と彼女は言う。
 ドイツ人に対する暴力の最悪の事例が、民兵によって犯されたのは疑いない。彼らは強制収容所を運営し、収容者を拷問、無作為に殺し、人びとをさらし台にかけたが、時には何の理由もなくそうした。急いで編成されたため、民兵はもっとも腐敗したポーランド人──たいていは非常に若い犯罪者──の中から新兵の多くを採用した。
 ラムズドルフ収容所司令官のチェロサ・ギンボルスキはまだ十八歳だった。八百人の子どもを含め、六千人以上が彼の指揮下で殺された〉(イアン・ブルマ著、三浦元博・軍司泰史訳、『廃墟の零年1945』白水社・二〇一五年、百十二ページ)

感銘したサック氏の言葉

 戦後ポーランドの歴史を巡る問題をさらに複雑にしているのは、ポーランド人が行ったユダヤ人迫害の問題である。この問題は本稿の主たるテーマではないので深入りはしないが、第二次世界大戦中、ドイツ占領下のポーランドでは、ポーランド人によるユダヤ人迫害が頻発していた。
 有名な事例としては、ポーランド東部のイェドバブネ村で、多くのユダヤ人がポーランド人によって惨殺された事件などがあるが、これは日本でも、新聞やNHKによって大きく取り上げられたので知っている人も多いだろう。そして、戦後長い間、共産主義政権下のポーランド人たちは、それを「ドイツの仕業」にしていたというのである。
 戦後、共産主義政権が支配したポーランドでは、こうした戦時下のポーランドで起きたポーランド人によるユダヤ人迫害はタブー化され、ポーランドの民主化が進んだ二〇〇〇年頃まではほとんど語られなかった。
 こうした大戦中のポーランドの状況が、ポーランドのユダヤ人たちを異常な心理に駆り立ててしまったことは明らかである。ポーランドに残留したドイツ民間人への迫害の問題を考えるうえで、当時のユダヤ人が置かれた状況とそのなかでの異常な心理を忘れて論じることはできないだろう。
 前述のように、私がサック氏のこの本に出会ったのは一九九〇年代半ばのことである。その内容に私は衝撃を受けた。同時に、この本のある個所に深い感動を受けた。それは、サック氏がこの本の前書きに書いた次のような言葉である。

〈私は、一九四五年に彼ら(ユダヤ人)が大勢のドイツ人を殺したことを知ってしまった。ナチスたちではない。ヒトラーの手下たちでもない。ドイツの民間人である。ドイツの男性、ドイツの女性、子供たち、赤ん坊たちである。その人たちの罪は、ただドイツ人であることだけであった。
 いかにユダヤ人たちの怒りが理解しうるものであったとしても、ドイツ人たちはドレスデンにおいてよりも、あるいは広島における日本人よりも、真珠湾におけるアメリカ人よりも、英国本土の戦いにおけるイギリス人よりも、あるいはポーランドのポグロム(ユダヤ人迫害)でのユダヤ人自身よりも、多くの民間人を失ったのである。
 私はそれを知り、そしてさらに知りたいと切望した。(中略)私は聖書学者ではないが、土曜学校に通った。(中略)そして私は、トーラ(ユダヤ教の聖典)が私たちに正直な証人であることを命じていることを、つまり誰かが罪を犯したことを知りながらそれを報告しなかったら私たちも罪を犯すことになる、と述べていることを知っている〉

〈私はヨーロッパで調査を進める一人のユダヤ人として、もしユダヤ人が何らかの道徳的権威を守ろうと思うならば、ユダヤ人の司令官たちが何をしたかを報告する義務があると感じたのである。
 私はもしかしたら、一部のユダヤ人たちが私に向かって、「どうしてユダヤ人なのにこんな本を書けるのだ?」と尋ねるかもしれないと想像した。そしてその問いに対する私の答えは、「いや、なぜユダヤ人がそれを書かずにいられるのだ?」以外にはないことも、私はわかっていた〉

(ジョン・サック著、『目には目を』前書き十~十一ページより。西岡訳)

サック氏のこの言葉を読んだ時の感動は忘れることができない。サック氏は、敬虔なユダヤ教の教育を受けたユダヤ人である。だからこそ、サック氏はこの問題を調査し、発表したのである。サック氏のこの言葉を読んだ時、私はユダヤ人とユダヤ教の偉大さに触れた気がした。
 そしてサック氏のこの言葉に、「一民族だけの神」という思想に反発して、ユダヤ教会から破門されたオランダのユダヤ人哲学者、スピノザの面影を見た気がした。いかなる民族も国家も道徳的に完全ではあり得ない。問題はその民族、国家のなかでそのことを直視する個人がいるかいないか、ではないだろうか。ユダヤ人のなかにはいたのである。 

ポーランド女性が見たもの

 冒頭で紹介したポーランド人女性に話を戻そう。私はその女性に、「ポーランドにドイツ人はいるの?」と訊いただけである。
 ところが、私のその質問に彼女は何も答えず、全身を震わせ始めたのであった。彼女の怯え方は、繰り返して言うが、私がこれまでの五十八年間の人生で目撃したことがないほどの怯え方だった。
 それは、一九八〇年代はじめのことである。当時、私はここに書いたようなポーランド現代史の闇の部分を全く知らなかった。
 そして昨年、私はある雑誌の記事を見て、その遠い昔の不可解な出来事の意味が何であったのかをついに理解できた気がした。
 その記事は、ドイツの週刊誌『デア・シュピーゲル』に載ったある記事である(二〇一四年四月七日号)。「魂の親族たち」と題されたその記事は、ウクライナ情勢が緊張するなかで、同誌が第二次世界大戦後、ウクライナや東欧に残留させられたドイツ人たちについて特集した記事であった。そのなかに、戦後ポーランドのある都市に作られたドイツ人収容所に関する記述があった。
 そして、その都市にあった収容所で、戦後長い間、抑留されていたドイツ人の逸話が紹介されていた。──その都市こそ、あのポーランド人女性が育った町なのであった。
 ここで先ほど引用したイアン・ブルマ氏の著作の一節をもう一度、引用しよう。
〈ドイツ人に対する暴力の最悪の事例が、民兵によって犯されたのは疑いない。彼らは強制収容所を運営し、収容者を拷問、無作為に殺し、人びとをさらし台にかけたが、時には何の理由もなくそうした〉
 そうしたドイツ人たちは、ポーランド人の前にしばしばさらし物にされた、とブルマ氏は書いている。私が出会ったその女性は戦後生まれのポーランド人であったが、彼女が育った町にはドイツ人の収容所があった。子供の頃、彼女は何を見たのだろうか。
 戦後七十年の時が流れ、歴史はなお政治の道具として利用され続けている。それは、ある意味では仕方のないことかもしれない。だが私自身は、歴史を政治の道具としては語りたくない。

真の和解を遂げるために

 私は、歴史が政治や外交の題材としてではなく、悲惨な歴史のなかで命を落としていった人々の運命に思いを馳せ、生きている私たちが真の和解を遂げるための礎として語られることを願うのである。
 あの戦争で、一体どれだけ多くの子供たちが親を失い、兄妹・姉妹を失い、そして自らの命を落としていったのだろうか。それこそが、私が一番知りたいことである。ユダヤ人もドイツ人もない。子供たちである。そして、戦後もそうした悲劇の残滓に対峙して、幼い心を傷つけられた子供たちがどれだけいたことだろうか。
 この記事を、ポーランドとその他のあらゆる土地で、第二次世界大戦中と大戦後に命を落とした全ての子供たちに捧げる。